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なんと言っても、自動車のための道路が整備されている事だ。市電もなくなり、金華山の下にまで、トンネルが通っている。 ぼくらの中学時代、長良川の堤防はマラソンコースで、北に雪をかぶった山並みを、南に長良川、金華山を見ながら、冷たい伊吹おろしを受けて走るのは、なかなか情趣があった。 しかし、今では、ここも、車道(くるまみち)と化している。 そして、中学への通学路(中学時代の昔の長良橋は、今の長良橋の東隣に在って市電が通っていた。)は一面が畑で春には、ひばりが「チュンチュン」と鳴きながら飛んでいた。夏には、トマトやナス、きゅうり、西瓜、とうもろこし・・・・などが実っていた。今では、畑もなくなり、住宅だらけになっている。 むかしは、岐阜公園に、すべり台やブランコ、鉄棒、砂場などあったし、新公園は野っぱらで、かけっこや草野球が出来た。いま、それらは まったく無くなってしまっている。子供たちは何処へいって、どこで、何をして遊んでいるのだろ?。不思議な気持ちになった。 人口が増え、車が増えたせいか、なんとなく金華山に枯れ木が目立ち、長良川の水も、なんとなく汚れているように思われるのが気になる。 しかし、そんな変わりゆく街の中で、「むかし」に出会うと、うれしくなる。 ●岐阜公園の「三重の塔」 ●秘密の通学路 ●金華小学校の「銀杏の木」 ●金華小学校で偶然出遭った「ひきやま」 ●出番を待っている「屋形船」 ●玉井町の町並み そして、何と言っても、嬉しかったのは、家の近くの「秋葉神社」が、「鵜飼観覧船事務所」の隣で、昔のままで、ひっそりと残っていた事だ。戦争中だったと思うが、ぼくら子供たちがこの前の広場(?)で遊んでいると、どこからか、二十歳前後のお兄ちゃんが現れ、この「秋葉神社」の前に、ぼく等を坐らせて「怪談話」などをしてくれた。それがとっても楽しかった。そしてこの「秋葉神社」の前には、自転車に乗って「紙芝居」のおじさんも、よくやってきた。「秋葉神社」の前は、そんな楽しい場所だった。
2050年になると、地方の中核都市から1時間かかる地域の人口は、現在より34%減少するという「国土交通省」の試算がある。仮に、岐阜の場合、25%減少すると約310 000人ほどになる。これは昭和三十五年頃の人口規模に相当する。 その頃、ふるさと岐阜は、どう変わっているのだろうか? 金華山の枯れ木はなくなっているのだろうか?、長良川の水は、今よりキレイになっているのだろうか?、日中友好庭園は草野球の出来る、原っぱに変わっているだろうか?、そして「秋葉神社」今と変わらずあるのだろうか? そんな事を空想しながら、ふるさと「ぎふ長良川」を離れた。 (追記) リンク集で (1)、今この時間の長良橋 長良川 金華山と (2)、昔むかしの長良橋 長良川 金華山 が観られます。 |
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(平成十六年五月十八日) |
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