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昭和二十年は、小学校入学前のぼくにとっても忙しい年であった。岐阜にも空襲が始まり、そのつど、防空壕に逃げ込んだり、夜などひどい時は、防空頭巾をかぶり、家財道具を積んだリヤカーを轢いて、逃げ廻った。そして七月九日の、岐阜大空襲で、市内の約80%が焼失し、863名の死者がでた。八月六日、八月九日、広島、長崎に原爆投下。八月十五日、ついに日本國敗戦。 戦後まもなく、家の近くにも、アメリカ軍が進駐してきた。彼らは時々、ジープでやって来て、チョコレイトやガムを放り投げてくれた。ぼくらはそれを拾って食べた。 リックをしょって、母と買出しにも行った。 父は、いつしか、満州から引き揚げていた。 それは、その年のよく晴れ渡った秋の日だったと思う。新公園で、草野球をしていると、中学生ぐらいの二人のお兄ちゃんが、「・・・・赤いリンゴに唇よせて・・・・・・」と声を合わせ「リンゴの歌」を唄いながら通り過ぎて行った。その唄声を聞いたとき、ぼくの頭の上にあった、なにか暗い、重苦しい、重石のようなものが、どこかえ、ス〜うっと消えて行くような感じがして、なにか肩の荷が降りた様な、ホッとした気分になった。 よく昭和二十一年、日本國憲法公布、天皇人間宣言、「希望と混迷の時代」へと突き進んで行く。そして、ぼくは岐阜市立金華小学校に入学。新公園や長良川、金華山の麓の丸山などが、ぼくらの遊び場となっていった。
●春は、川の水も温んで、桜並木が美しい。いよいよアベック様の季節となる。 ●夏は、遊びの季節、水泳、魚取り、舟あそび・・・・、夜は、鵜飼に、花火に、ホタル狩り・・・・・・ ●鵜飼の季節を終えた晩秋は、いつしかアベック様もいなくなり、川面に映る月の光が、さみしくも、美しい。 そんな思い出のふるさと、ぎふ長良川に、今年の四月、久しぶりに帰った。 このページは、その時の記録である。 |
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