「いじめ問題」を考える (1)
 最近「いじめ」が問題になっている。
それは、人や自然、そして自分のいる環境との「出逢い方」が貧弱になってしまった結果だと思うのです。
 たとえば、「彼のことをよく知っています」と言っても、それはあなたの知る彼を知っているということで、他の人が知る彼ではありません。
あなたの知る彼は、どこまでも、あなたぎりの彼なのです。その事は何も、彼との間だけでなく、あなたの「出逢う一切」はあなたぎりの一切なのです。あなたとの間にまったくスキ間のない、あなたのいのち(世界)の中味なのです。
だから、出逢う一切に「出逢う処わが生命」(内山興正老師)という出逢い方でなけばならないと思うのです。
 ところが最近、この「出逢い方」が少しおかしくなってしまった様に思うのです。
郵政総選挙平成十七年九月に行われた「郵政総選挙」では「刺客候補者」なる人達が現れました。
激しい選挙戦の末、相手をなぎ倒し、刺客は得意顔で「バンザイ」三唱をしているのです。
なにか少人(しょうにん)じみたものを感じませんか?
昔の日本人は、もっと大人らしい戦い方をしていたと思います。
たとえば、武道にしても「礼に始まり、礼に終わる」と言って、お互い尊重し合いながら、戦ったと思うのです。勝たねばならぬが、しかし勝ちさえすればよいという態度ではなかったと思うのです。
茶道(客を見送る)

亭主は躙口まで客を見送る

基本のけいこ(表千家流)」
世界文化社  監修 堀内宗心
茶道にしても、その所作や作法もさることながらその底には、「一期一会(いちごいちえ)」といって「主客の出逢い方の深さ」があると思うのです。
あるいは、相手に何か伝えるにしても、今は簡単に「メール」ですましてしまいますが、一昔前は主に「手紙」で伝えていました。その手紙には必ず「前文」で「時候の挨拶」や「相手への安否」あるいは「感謝の挨拶」を書いてから「主文」に入るという、暗黙のきまりがあります。
この様に、日本人の暮らしの中には「出逢い方の深さ」を身に付ける仕組みが、数多く組み込まれていた様に思うのです。
 「いじめ」を考える上で、この様な「深い出逢い方のあるくらし」をもう一度、見なおしてみる必要があるのではないかと思うのです。
 それともう一つ気になるのは、「自由」とか「愛」とかと言う言葉が、今の日本人に余りにも誤って、「すり込まれてしまっている」のではないかという事です。
たとえば、「自由であるべき私は、あなたを愛しています」と言われたら、ゾッ〜としませんか?。何にかおかしく感じませんか?
 私達日本人に、誤ってすり込まれてしまった「自由」とか「愛」とかの本当の意味する処を考え直してみると同時に、「慈悲」という事について、本気になって学ぶ時が来ているのではないでしょうか。

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