草を見ずして草を取る
 子供の頃に「上農は草を見ずして草を取り、中農は草を見て草を取り、下農は草を見ても草を取らず」と教えられた。
 中農と下農は分かるが、上農については、ぐうたらな百姓を戒めるために強調された、一種の比喩だと思っていた。
 見えない草をどうして取ることができるんだとも思ってしまう。横着で愚昧な百姓を教化するには、分かりやすく強調した表現で、分からせてやることが必要だっただろう。
 この言葉はちょくちょくその後でも聞いたし、夏草の生い茂った畑を見ると、下農のやることだと理解できる。
 
 ところが、畝を立て種を蒔いてからほんの少し芽が出た頃、畝の周りをもう一度耕してやると、本当に草取りが楽になるのだ。
 まだ地表にはほとんど緑の雑草は見えないし、蒔いた種に障害になるような草ももちろん育っていない。そんなときに畝周りを打ち崩し、そして溝をあげてやるのである。
 勤めながら片手間でやっていた頃は、当然たまの休みに作物が負けそうになっているところから、草を引いてやるのが精一杯だった。
 そんな時道端のまだ苗が芽を出したばかりの畑を、丁寧に溝上げしてあるのを見ると、よほど暇なんだろうと思ったものである。しかし自分が今その身分になってやってみると、この格言は実にいいことを言っていると思うのだ。
 作物に影を落とし、障害になるほど草が育ってしまってからの草取りは、作物の根も傷めるし根が残っていて、すぐ雑草がはびこる。中耕してやっても、埋まった草は枯れないで生き返る。
 ところが芽を出すかどうかという時に耕すと、すでに雑草の種が白く茎を土の中で伸ばしているのが分かる。そんな時、溝あげするのは楽だし、雑草も完全に死ぬ。
 うちの庭のノビルを引いて、調理する話もしたが、一面では草を以って草を制するやり方も、意味がある。右の写真はニワザクラが勝手に生え、その向こうにはクチナシが繁り、その根元にはギボシがはびこって、紫蘇も生えている。
 それぞれを適当に牽制しながら、調和を取ってやるのが日本の古くからの庭園ではなかろうか。これに対して日本の農家は、営々として畝を作り作物を育ててきた。
 神社やお寺の庭は、それなりに百姓の思想とは違った価値観を持っていただろう。それが自然に対する接し方に現れてくる。牧畜にはまた別の倫理観がある。
 「畑を何度もこぞってやる(中耕する)と、それが肥料になって作物が育つ」という教えも、この草を見ずして草を取ると同じ教訓だということが分かった。
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