保田教授最終講義

 三月一日に神戸大学農学部の、保田教授の最終講義と懇親会があった。正月早々案内をもらって即申し込みをしていたので、雨の中を出かけていった。最終講義では、会場で赤目エコリゾートの理事仲間である林さんが声をかけてくださって、聞くと彼は理学部の出身だとのこと、保田さんのことを高く評価しておられた。
 講義はともかく、受講者も多かったのだが、私はあまり知っている人が少ないので、懇親会場に行った。ここも参加者が多く、飛び入りが多いので私は席を変更された。久しぶりに丹波篠山時代の仲間に会えると思っていたら、どうも私だけがみんなより10年近く年長なのである。
 これまでもそうだったのかもしれないが、退官記念の懇親会では、懐かしい同級生に会えたが、今回はみな若い。学部の指導した学生に絞ったということで、外国から駆けつけた人もあった。
 講義資料にも篠山時代の話があって、とても懐かしく思い出した。保田さんは豊岡で私が出石だから、早くから親しくしていただいた。篠山の兵庫農大は、戦後篠山連隊の兵舎に、台北帝大などの引き上げてきた教授を集めて、新しい理念で小さな町ぐるみの食糧生産を指導する大学を目指していた。
 私は虫が好きですでに全国に虫仲間の組織を作り機関紙も出していた。日本のファーブルと言われた岩田先生の教室に一直線で進んだものの、学問としてはものにならなかった。60年安保のリーダになって、社会活動にのめりこみ、20歳の冬には結婚したし、三井三池の闘争には死を覚悟して総評の一員でピケを張っていた。保田さんは温厚で、私のようなめちゃはしなかったが、いつもフォローをしてもらったように思う。
 安保のリーダーで退学を覚悟して全学ストやデモを計画したとき、前夜無理やりに私を学長のところに何人かで連れて行った。
 農学部は北大の流れを汲んでクリスチャンが多く、そんなグループだった。佐伯学長はほとんど私の話の聞き役だった。私が教会に行っており、高校で生徒会長をしていた話を聞いて「私は誰も処罰しない主義だ、君にはリーダーシップはあるんだ」と言った程度だった。あくる日大学の門のところで学生部長が待ち構えていて、ともかくサインをさせられたのだが、学長は教授会を早朝招集していて、私が届けをしたことにして全学休講にした。

  これがなかったら私は退学になっていたのだろう。前に押し出したのも保田さんで、かばってくれたのも彼だった。その後すっかり社会活動に関心が向いて、みんなが大学を出て農民を搾取する農薬や機械などの企業に就職するが、俺は農民の側に立つといきまいて、愛農会に入り農村活動をした。しかしそれもいい仲間が組織化できたころに内部批判と農村の変化の中で、私は挫折してしまう。
  そんな失意の中で当時県庁などにいた同級生たちと会って飲んだ。学生のころは宝塚の宮崎君などの家にみんなで繰り込んでマージャンで徹夜し、翌日試験を受けたりした。みんな県庁でえらくなったが、学生時代はだいぶいい加減だった。のんびりして長くかかる福知山線で通う仲間は、車内では広告の額縁をはずしてその上にオーバーをかけてトランプや花札をしていた。その続きで家にも帰らず講義を聴きに行くのだから、寝に行くようなものだ。
 こんなときの仲間が失業している私を心配してくれた。30を過ぎて職のない私のために「とにかく肩書きを作れ。保田さんに頼んで研究生にしてもらえ」ということになり、お世話になった。だから私は年上でも彼が指導した研究生として、出席の資格があって、案内状が来た訳らしい。
 それにしても懐かしい思い出だが、40年という歳月は、人の運命をたどる永い時の経過を含む。保田さんの話にも出たが、当時新天地を目指してブラジルに渡った仲間や、理想の国を作るために北朝鮮に行った人たちに思いをはせ、中には亡くなった者もいる。
 確かに保田教授は、日本の有機農業の中心で現役の活動者である。これから兵庫農漁村社会研究所でのご活躍を期待したい。ここにかけられた3つの夢をぜひ実現していただきたいものである。

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