ごまかされないゴマの香り
 常々感じていたことだが、近頃のゴマは昔のような香りがない。どこのスーパーにも、炒りゴマや摺りゴマが売られていて、ゴマは手間をかけずにさっさと使用できる。
 しかしどうも昔のような香りがないのである。冷蔵庫の中に使いさしの炒りゴマも摺りゴマもあるが、それで香りが飛んでしまっているのだろうか。でもこれがゴマだという感じのする香りがないのである。

 そこで2004年からゴマを作ることにした。子供の頃はゴマはどこかの畑のひと畝に、ひっそりと育っていた。菜種のように華やかな花も咲かないし、稲や麦のような主役でもない。
 まして毎日食べるキュウリやナスなどの野菜でもない。そして食卓でも、ゴマが主役でできた料理もないのである。それなのに<開けゴマ>という呪文になったり、<ゴマを擂る>などという表現もある。ゴマ擂り坊主があってごまかしがあって、言葉の中にゴマは紛れ込んでいる存在なのだ。

 さて種は簡単に手に入るが、さすがゴマの苗は売られていない。あの小さな粒が結構たくさんあるように見えたので、ひと畝を二条蒔きにして、丁寧に土をかけた。発芽は不揃いではあったが、たくさん芽を出してきたので、発芽率は良い。
 むしろ丁寧に草引きをして間引いてやるべきだったのだろうが、この年は次から次に台風が上陸した来た。ちょうど右の写真のように茎が伸びて花が咲く頃からである。その度になぎ倒されてしまうので、何とか引き起こしてやるのが精一杯だった。倒されたのはトウモロコシや手をしたキュウリやトマトなど、すべての野菜に及ぶので、ゴマにばかりかかっていられなかった。
 さて倒れたのを引き起こして何かで支えてやりながら、秋にはすこしづつ熟してきた。発芽が不揃いだったのと同じように成長も不揃いで、先に熟してゴマの鞘が開いてきたのから採り入れた。
 左上のように、莢が褐色になったのから切り取って大きな袋に入れて干して貯めていった。そして初冬には1リットルくらいのゴマ粒が収穫できた。何しろ小さい上に混ざり物が多く、篩でも完全に選別できない。だからと言って唐箕で風撰するほどの量もない。
 散々苦労してゴマ粒を選りだした。扇風機を使うとうまく分かれるのかと思ったが、この風は乱流なので、唐箕のようにはうまくゴミが飛ばない。そして一つまみを炒ってつぶすと、なんとあの香ばしいゴマの香りがする。いつの間にかゴマを炒る網のついたしゃもじくらいな炒り器がなくなっていたので、早速買ってきた。
 この本物の香りが伝えられないのが残念だ。コンフリーをお浸しにしてもこの香りで美味しくなるし、豆腐もゴマだれで完全に味が変る。ごまかすという語源になるくらい、素材を引き立てて別な味にしてしまう。
 今の売られているゴマは東南アジアなどから輸入されて、色々な過程で香りが飛んでしまったのだろうか。一年間苦労して、ゴマの香りを再認識した。
 
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