藤・桐 一杯
       藤・桐 一杯の意味
 子供の頃遊んでいた花札の役に、「藤桐一杯」というのがあった。
 藤と桐の札、全部で八枚を揃えると、何文かの役が認められる。ただ花札の絵柄だけで見ると,整合性もないし、関連性もない。藤は旧暦の4月に当たる札でカッコウが飛んでいる10点と短冊とかす札、桐は12月で鳳凰のついた20点と、五三の桐のかす札である。
 赤短・青短・月見て一杯・猪鹿蝶・花見て一杯、などは、揃えた札を見れば、関連性があり、それなりに図柄が揃って意味が判る。これに比べると藤桐一杯は、何の関連性があるのか判らなかった。
 ところがもう10年以上前に、「藤と桐は旧暦の四月に同じ頃咲く花で,色も良く似ている」ということに気がついた。一方は花軸を上に伸ばし、一方は下に伸ばすという対象性もある。澄み渡った五月の空を、藤色に染めて彩る華やかな姿が似ている。
 この二つを写真で並べて、私に閃いた整合性を、紹介してみたかった。写真を写そうとすると、藤は山裾を覆いつくすように繁茂し、またあちこちのちょっとした公園には、藤棚があって、自然のままのものも管理されたものもふんだんにある。特に山裾のものは、気を覆いつくし絞め殺しそうなほど勢いがある。
 ところが桐である。昔はどこにでも目に付いたし、畑の隅や屋敷の裏手にでも、桐の木は大きく育って花もいくらでも見られた。農家では、「娘が生まれたら桐の木を植えて、嫁入りに桐のタンスを作って持たせる」言われたものだ。育ちが早い。いざ探そうとすると、あまり近所にもないし、どうしてもいい写真が撮れない。
 北陸自動車道を通っている時に遠くに見えたり、琵琶湖の村からの帰途に薄暗い中で大きな何本かの桐を見たりしたが、写真にはならなかった。五月には毎年気をつけているのだが、遅すぎたり枯れかかっていたり、綺麗な桐の花に出会えなかった。
 2010年の五月、近鉄沿線で見たので、60`くらい走るつもりで出かけると、街外れの農家の裏山に、屋根越しに桐の花を見つけた。広い農家の敷地に入りお願いをすると、もちろん気持ちよく、撮影を許可してくれた。
 四方山話の中で、「そういえばあまり見なくなったなぁ」という感想もあった。
 この桐の写真には、苦労した経緯があるので、得とご観賞ください。
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