1999/11/15

東海村の臨界事故3

遮蔽のないミニ原子炉が、いきなり街なかに出現した!

びわ湖通信2000年1月号 :必要か、不必要か? 日本の原子力
原子力は悪玉か? それとも善玉?
20年前の私の原子力開発論
化石燃料文明、核燃料文明は二つのあだ花
夢物語ではなくなっている「太陽化」

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  林  智(はやし さとり)(びわ湖の会顧問)
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びわ湖通信2000年1月号
必要か、不必要か? 日本の原子力

林  智(びわ湖の会顧問)

 昨年12月21日、大内さんが亡くなりました。 その時点で推定されている被曝線量は16ないし20シーベルト、 この値は全数致死線量の3倍にも達し、 20世紀後半の進んだ医療技術をもってしても、 どうすることもできなかった事情を物語っています。  さてこの連載最後の本号では、 前号の終わりに[注]として書きとめたさまざまの話題のうち、 その最初の一点にしぼります。 すなわちいま20世紀末、日本のエネルギー政策は、 いまだに原子力の呪縛から逃れられないでいますが、 こんな状況が、果たして21世紀からさらに22世紀へという文明の歴史の流れの中で、 妥当であるのかどうかを考えておきたいのです。。
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原子力は悪玉か? それとも善玉? 
 核エネルギーの平和的解放、いいかえれば原子力の平和利用は、 反原子力を唱える多くの人々が信じこんでいるように、 一概に悪いことばかりではあるとは言えません。 長所のいくつかを挙げてみましょう。 第1には前号に書きましたが、つきものの放射能の危険度は、 集団への影響という立場(「人類の立場」)から見るかぎり、 むしろ化学物質よりもうんと安全です。 第2に、いろいろ議論はされるものの、化石燃料と比べれば、 その資源量が豊富であることを否定するわけにはいきません。 第3に、地球温暖化に対する影響が、 化石燃料よりもけた違いに小さいことも事実です。 第4に、こんなこともあります。 同じ量のエネルギーを生産するために扱わなければならない物質の量は、 化石燃料の場合よりも、何桁も小さくてすむのです。 ちょいと考えてみてください。 これは原爆や水爆の破壊力が、火薬を使う爆弾よりも、 けた違いに大きかったことの裏返しでしょう。 ちょっと逆説的ですが、理論的には、 原子力を安全に取り扱える技術的な「可能性」はあるということにほかなりません。  だが一方で、現状の原子力開発には決定的な危険、 あるいは欠陥が伴っています。 たとえば昨年の臨界事故、日本でははじめての急性事故死者が出たとはいえ、 これは事故自体としては小さな事故です。 「チェルノブイリ」とは比較にもなりません。 しかし、こんな「まさか」が起こってしまうという、 日本の開発の「システム欠陥」が露呈されたという意味では、 ことはきわめて重大です。 まして世界の大勢は、先進国こそ脱原発の方向に向かっていますが、 アジアなどの開発途上国は、日本を見習って原子力への指向性を強めているのです。 21世紀、とんでもない大事故が、起こらないという保証を 誰ができるでしょうか。  システムの欠陥に関しては、究極的には世界の平和維持システムの欠陥を 指摘しておくことが必要でしょう。 世界から戦争がなくならないかぎり、 そしてミサイルという物騒な代物がなくならないかぎり、 何万という大内さんが世界のどこかで生まれないという保証はないと思います。 原子炉をもつ敵国を致死的な放射能の海にするのには、 ミサイル弾頭は別段、核弾頭である必要もないのです。  もうひとつ厄介なのは、原子炉が増えるにつれて必然的に蓄積されてしまう 高レベルの放射性廃棄物の処理、処分の問題です。 このことは多く語られていますし、広く知られていることですから、 中身に立ち入った話は一切やめにしますが、日本のような狭い国土の国では、 これはことのほか重大な制約因子になるでしょう。
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20年前の私の原子力開発論
上の考察の結果として、20年前ころから10年前ころまで、 私は日本の原子力開発に関して、次のような主張をもち続けていました。 とりあえず現状の原子力の「実用開発」を凍結する。 つまり新しい原発はつくらない。 必要なエネルギー需要は、 たとえば石炭や石油を天然ガスに切り替えるなど、 在来型技術の低公害化の方向で対処する。 いつまで凍結するのかというと、世界から戦争がなくなる目途がつき、 日本の開発の体質が、利潤・効率優先から、安全優先のそれに変わるまで。 当時、一応の目安として、20年という期間を想定しました。 そんな80年代の前半といえば、まさに冷戦状態の最危険期で、 まかりまちがえば数日中に、人類の文明はおしまいだとまで取りざたされた時代です。 とはいうものの原子力平和利用は、 人類の技術としては捨てがたい良さもある。 だから高レベル廃棄物の処理、処分の問題を含めて、 その安全性確立に重点を置きながら、「研究開発」は促進する。 もちろんこれをやるのは企業では無理。 国民的コンセンサスのもとで国の事業として継続する。   つまりこう言ったのです。20年ほど時を稼いで、 その間に世界から戦争を追放すること、安全な開発のあり方を実現すること、 この2つに、国も国民も「全力投球」をしよう。 そしてその実現に目途がついた時点で、われわれが原子力をどう待遇するか、 あらためてみんなで考えればいい。  しかしいま、戦争の追放も開発体質の改善も、 基本的にはいずれも実現されないまま、その20年が経ってしまいました。 そして時代は世紀の境目です。 だが注意して考えてみると、この20年の間に、 かつてはまだ評価が不可能であった新しい条件が生まれています。 「太陽化技術」の目を見張るような進歩と普及がそれです。
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化石燃料文明、核燃料文明は二つのあだ花
ここでちょっと視点を変え、文明とエネルギーの関係をふりかえってみましょう。 文明とは環境の人工化にほかなりませんから、文明にとって、 そのためのエネルギーは不可欠です。 ところが約1万年前とされるその発祥この方、使われたエネルギーは、 すべて太陽エネルギーでした。人間の筋肉を動かすエネルギーは、 食物にため込まれている太陽エネルギーです。 牛馬など、家畜の力も同じです。 採暖や調理に使われた薪も太陽エネルギー、 ずっと下がって第2の千年紀のころから盛んになりだす風車や水車も、 また太陽エネルギーです。  この状態に変化が起こるのは、文明の歴史1万年に比べればついこの間 (200年ほど前)のこと、産業社会への化石燃料の登場でした。 20世紀に入ると、これに核燃料が加わります。 人類はこれらの燃料を使って、高密度のエネルギーを一挙に発生させ、 機械の助けを借りてグローバル化した利便社会を築き上げたのです。  だが化石燃料も核燃料も、再生可能な太陽エネルギーとちがい、 使えばなくなる再生が不可能なエネルギーです。 おまけに20世紀の地球は、みなさんご承知のように、 それらが排出する廃棄物のおかげで、窒息してしまいそうな 荒廃したありさまになっています。 私は大局的に見れば、人類の技術の発達は、 22世紀の文明をふたたび「太陽文明」に回帰させざるをえないと見ています。 おそらくそのころ(いまから100年後)、人々は、 20世紀を中心に地球を彩った「化石燃料文明」「核燃料文明」を、 二つの「太陽文明」のはざまに咲いたあだ花であったと回想することは まちがいがないと思うのです。 私がそう思う根本的な理由は、太陽エネルギーの量の豊富さです。 もっとも厳しい推算でも、その量は現在の文明が使っているエネルギーの 1万倍はあると見られています。 いいかえれば、太陽からやって来るエネルギー全体のわずか1万分の1を、 文明が使いやすい状態に「加工」すればよいだけの話なのです。
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夢物語ではなくなっている「太陽化」
注意して書いてきたつもりなのですが、 やはり残りの字数がぎりぎりのところにきてしまいました。 もう少し書くつもりでいた太陽エネルギー利用の現状についての 具体的なお話は、できれば前号の終わりの[注]に挙げた本を 参照してください。  結論だけを書きましょう。 いまや文明の「太陽化」は夢物語ではありません。 技術的可能性を論じる段階でも、さらにはまた経済性を問う段階でもないのです。 要は政治がやる気になるかならぬか、つまり政策の問題であるにすぎません。 太陽エネルギーが、核燃料はもちろん化石燃料とさえ、 経済的に競合できる時代がすでに目の前に迫っています。 それゆえ私がおそれるのは、放射能の怖さなんかではありません。 日本の原子力への固執が、途上国の後追いを招き、 本来必然的な流れである人類の「太陽文明」回帰を遅らせ、 21世紀中ごろにはめどをつけることが必要な「永続可能な社会」建設への 道のりに、大きい障害をもたらすのではないかということです。 この期にいたって、なぜ原子力に固執する必要があるのでしょう。  
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