1999/11/15

東海村の臨界事故1

遮蔽のないミニ原子炉が、いきなり街なかに出現した!

びわ湖通信1999年11月号 :臨界・放射線・人体影響
有名になった臨界
放射線と放射能
放射線の人間への影響

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  林  智(はやし さとり)(びわ湖の会顧問)
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びわ湖通信1999年11月号
臨界・放射線・人体影響

林  智(びわ湖の会顧問)

 東海村の臨界事故から一月が経ちました。 これは専門家の目から見れば、まるであいた口がふさがらぬばかげた事故です。 でも見方によっては原子力開発推進勢力にとって、命取りにもなりかねない 事故だったといえるでしょう。 思いもかけない致命的エラーに、その狼狽ぶりが目に見えるようです。 マスコミは、過剰すぎるくらい豊富な情報を流してくれていますから、 それらをくり返す必要はもうないと思います。 ただそんな情報を理解するうえで、おそらく必要だと思う知識の若干を、 本号では解説しておくことにいたしましょう。 事故に対する私の見方、考え方を、次号で少し述べさせていただくことにします。
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有名になった臨界
 一月前、突然飛び出した「臨界」という語は、多くの人々にとっては見慣れない、 そして聞き慣れないことばだったのではないでしょうか。 これを理解していただくために、もう少しその奥にある知識に踏み込むことにします。  まず「ウラン」。これは天然に存在する元素のなかでもっとも重い元素ですが、 その天然ウランにも、重いウラン(U-238)と軽いウラン(U-235)があって、 それらが混じっています。 このうち、簡単に核分裂反応を起こしてくれるため原子炉燃料や原爆の爆薬に 用いられるのは軽い方のウランです。 でもこの軽いウラン、天然ウランの中には0.7%しかありません。 99.3%は、いわば不純物の重いウランです。 「濃縮」という語も、報道記事の中にはよく出てきました。 ウランを燃えやすくするために、軽いウランの濃度を上げる(もとの0.7%から、 3〜4%ぐらいにする)ことをウラン濃縮というのです。  さてこの軽いウランの原子核は、中性子を1個吸うとそれが引き金になって、 ぽっかりと二つに割れます。これが「核分裂」反応です。 そのときまっ二つに割れることは比較的少なく、多少大小のある二つの破片になります。 これらの破片を「核分裂片」といいます。 それと同時に原子核1個あたり2〜3個の中性子が跳び出します。エネルギーも出ます。 賢明な読者は、ここでその跳び出した中性子が、別の軽いウランの原子核に飛び込めば どうなるかと考えてくださったのではないでしょうか。 そうです、ウラン原子核はいっぱいありますから、こうなればいつまでも 中性子を媒介にした核分裂がつづくでしょう。これが「核分裂の連鎖反応」です。 しかしながら核分裂さえ起これば、いつでも連鎖状態になるというわけではありません。  一本のチョークをとって、ウランの棒だと考えましょう。 2つに折ります。するとそのとき表面積は? 折れ口の分だけ広くなります。 4つ、8つと折りつづければ、総表面積はどんどん大きくなります。 逆に言えば、全体のウラン量が同じなら、小さい部分に分けるほど表面積が大きく、 それらを大きい塊にまとめると、逆に表面積が小さくなるということですね。 ところで考えてみてください。核分裂が継続する(連鎖を起こす)ためには、 1分裂あたり、跳び出した中性子の少なくとも1個が、隣の軽いウラン原子核に 飛び込んでくれなければなりません。 塊が小さいと、その広い表面から中性子は外部に漏れて、連鎖の維持に必要な最低1個が 確保できません。 こういう状態を「臨界未満」といいます。これなら安全です。 ところが小塊を集めて大きい塊にするとどうでしょう。 中性子の漏れは減り、連鎖媒介の中性子数が1個を上回り、核分裂の連鎖が起こって しまいます。「臨界超過」です。 そして臨界未満と臨界超過の境目、つまり連鎖が起こるか起こらないかの境目を 「臨界」というのです。 そして臨界のときのウランの量が「臨界量」です。 また臨界超過状態になることを、俗に「ウランが燃える」ともいっています。  ここでもう一言、さきに核分裂が起こると、ウラン原子核は2つの核分裂片に 分かれるといいました。 実はこの破片は、ほとんどの場合、放射性物質(放射能)なのです。 ウランが臨界を超えたともなれば、無数の核分裂反応が起こるのですから、たくさんの 放射性物質が生まれます。 この雑多な放射性物質の集まりを、「核分裂生成物」とよびます。 つまりこれが俗にいう「死の灰」です。
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放射線と放射能
 ひょっとして、まだ放射線と、放射能の区別がついていない方はおられませんか。 両者は全然別の概念であることにご注意ください。  さて放射線を、私はつぎのように定義しています。 「光子(X線やガンマ線の粒子)、電子、中性子、原子核などのミクロの粒子 (ふつうの顕微鏡では見えない粒子)がエネルギーを得て、高速度で走っているもの」。 なにしろミクロの粒子ですから、エネルギーが一定以上に大きいと物質中(人体内)に 透過して、そこに自らのもつエネルギーを与えます。 こうして放射線の人体影響が起こります。 つまりわれわれの体に直接影響を与えるのは、この放射線であって、 放射能ではありません。 放射能影響などということばを聞くことがありますが、 こんな言い方は少しおかしいのです。  では放射能というのは何なのでしょう。 放射線がやってくるその源をおおわけにすると、つぎの3つになります。 (1)宇宙;ここから来る放射線は宇宙線です。 (2)機械;X線装置(医療用、研究用、工業用等)など。 (3)放射性物質;これは不安定な原子核をもつ物質のことです。 不安定なものは安定なものに変わろうとするのが自然の摂理で、そのとき放射線と いう形で不安定さの原因であるエネルギーを放出するのです。 「放射能」という語はこの放射性物質の別名です。 本来は、放射性物質が放射線を放出する能力のことなのですが、いつの間にか 放射性物質そのものをさすようにもなって、いまでは専門家でも日常的にそんなふうに 使っています。
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放射線の人間への影響 
 放射線と放射能が理解していただけたら、つぎは放射線の人体影響です。 これについては4つくらいのとらえ方を理解しておいていただかなければなりません。 (1)早期影響と晩発影響、 (2)身体的影響と遺伝的影響、 (3)確定的影響と確率的影響、 (4)個人への影響と集団への影響 の4つです。 そのどれも学問的には厳密な定義があるのですが、なにぶん紙面があと少なくなって きました。 (1)と(2)は、名前を見ればほぼまちがいなく理解していただけると思うので、 ここでは説明を省略させていただくことにいたしましょう。  そこでまず(3)です。 確定的影響というのは、どれぐらいの量の放射線を浴びたかという原因が分かれば、 結果の方はおのずから確定してしまう影響という意味です。 今度の事故の、重症の3人が起こした急性放射線症(むかつき、ふらふら、嘔吐、下痢、 血球減少、そのうちに脱毛、やがていのちが危険です)は、典型的にこれにあたります。 ただし、この影響は被曝量が大きくないと起こりません。 つぎは後者、確率的影響の方ですが、私はこれを市民向けに宝くじ型影響と 呼びかえています。 そうです、景品がガンや遺伝的影響で、放射線を受けるということは、 そんな景品の当たる宝くじを買うことにほかなりません。 景品の当たる確率は、くじをたくさん買うほど、その枚数に比例して大きくなります。 被曝量が大きいほど、ガンという晩発影響や、遺伝的影響が起こりやすくなるのです。 だが注意してください。 宝くじは買ったからといって、必ずあたるものではありません。 むしろたいていは何にも起こらないのです。 でも一方で、宝くじはたとえ1枚でも買えば、当たらないとは言いきれません。 東海村でいま心配されているのは、人々がどのくらいの枚数の「放射線くじ」を 買い込んだかということです。 急性放射線症の3人は、確定的影響で死線をさまよった後、たとえいのちが助かっても、 どっさりと放射線くじを買い込まされて、一般の人々よりもはるかに色濃いガンと 遺伝的影響(遺伝の方は、以後子どもをつくらなければ関係ありません)の影に おびえなければならないということになります。 確定的影響の後遺症の方も心配されます。 そして最後は(4)、実はこの分類の仕方ほど、一般の人々に理解されにくい概念はない、 そんな気がしています。 まず個人への影響、これはそんなにわかりにくくはない、 被曝者個人にとってどのくらい怖いかに着目してとらえた影響です。 そしてつぎが、日本社会や日本人など、人々が属する集団に対して、 人々の現実の被曝がどれほどの負担を及ぼすかに注目する集団への影響です。 こんなややこしい考え方を導入しなければならなくなったのには、近代社会が 個人相互の結びつきを強め、かつそれがグローバル化をしたという背景があります。 つまり人々の「人権という立場」を問題にすると同時に、 「人類(集団)の健全性の立場」をも考えて、「大丈夫か」と問わなければならぬ 時代になったということを表しています。 大事なことはこの両者をたがいに取り違えて議論してはならないということであり、 またある現実の被曝に対して、必ず両者を別々に評価して、 同時に考慮に入れる必要があるということです。 片一方の評価では、それこそ片手落ちなのです。 それでは以上の基礎知識を前提に、次号では私なりの東海村・臨界事故の評価を させていただくことにいたしましょう。
 
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