Y子へのメール
〜2000年、ちょっと辛口のベトナム印象記〜
林 智
● このゴールデン・ウィーク、「日ベト協会」主催のベトナム親善ツアーに参加し
て、ハノイからホー・チ・ミン[街](旧名サイゴン)まで、1200kmの旅をしまし
た。この国は、いろんな意味で「たいへんな」ところでした。観光客にとってはお義
理にも快適な国とはいえないが、いままでの乏しい海外旅行の経験の中で、最もいろ
んなことを考えさせられた国でした。でも思えば私にとっては初めての「社会主義」
国であり、また世界の「最貧国」のひとつへの訪問であれば、それらの感慨は当然の
ことであったのかもしれません。ベトナムの印象、少し個条書きで書いてみます。
まず第1に暑いこと暑いこと、時は4月のおわりから5月のはじめ、連日気温は30℃を
おそらく遙かに超えており、ちょっと変な感じながら、この国はこのころが、一年中
で一番暑いときなのだそうです。帰ってきてかれこれ1週間というもの、毎年秋口に
感じる「天然冷房病」で、体調が変でした。
第2に「ベトナムの食事は日本人の口に合っておいしい」などと旅行案内には書かれ
ていたのですが、私に言わせれば、どうやらこれは嘘。ジュースを飲めば10%ジュー
スといった感じだし、牛乳も薄い、薄い。それが一流のホテルであってさえ。ツアー
の食事は、来る日も来る日も似たような味のスープと養殖のエビが出てくるワン・パ
ターン、果物は、パインもバナナも日本で食べるものの方が遙かにうまかった。最後
の日にホー・チ・ミン[街]のレストランで、勝手に食べた「なま春巻」、これが唯
一おいしいベトナム料理だなと感じました。
第3、「ちんぴら役人」が、とくにハノイでは威張りかえっています。入国審査や税
関などといえば、どこの国の場合でも、おしなべて係官に人間性を感じるようなとこ
ろではありませんけれども、この種の場所で感じる不快さはハノイではまた格別。税
関職員が通関する人々を怒鳴り散らして威嚇するさまは異様で、乏しいながらのわが
海外旅行では初めての経験。ちょっと民主主義体制の国では考えられない光景でし
た。ベトナムの土地に降り立って、これがこの国の包括的な印象をかたちづくる最初
の強烈な体験です。
第4、政策の批判を許さない国の異様さは、ホー・チ・ミン[人]の「ミイラ」の拝
観のため、炎天下の行列が延々と続く光景にきわまれりという感じです。明らかにカ
リスマ信仰、新興宗教の心情を感じます。もっともこの度肝を抜かれるような人の列
は、ベトナム戦終結25周年という時期のせいもあったのかもしれませんが。ツアーの
メニューの一つなので、「これはよい体験」と「拝観」をいたしましたが、なんとこ
こでは観光客は(カネの力による)特権階級です。バスで長い列の中程に乗り付ける
と、例のいばりかえった「ちんぴら役人」(警官でしょうか?)がチェックして、帽
子だめ、手荷物だめ、カメラだめ、半パンツだめ、みんなバスの中に残し、数十人の
集団で、その役人に導かれて長蛇の列の先頭付近に割り込みます。割り込まれる人々
は、当然のことのようにおとなしく待っています。「ちんぴら役人」の権力は、「厳
めしさ」の裏で進む汚職、腐敗の温床にならざるをえないでしょうね、おそらく。戦
時中の日本社会を感じました。
第5、ホー・チ・ミン廟に関連してもう一言いえば、私なんかが感じる大きい違和感
は、この広大な敷地、贅を尽くした建築物と、国や人々の貧しさとの間の大きい落差
です。旧ソ連が造ったレーニン廟のまねだともいわれていますが、どうして20世紀型
の社会主義は、こんなものを造りたがるのでしょう。「ホーおじさん」などと、国民
から親しみを込めて呼ばれているとされるホー・チ・ミン[人]が、自分の死後のこ
んな処遇を望んでいたなどとは、とても私には思えないのですが。戦いのためにカリ
スマが必要だった事情は理解できなくもない。しかしすでに敵がいなくなったいま、
経済だけは開放し、政治的にはカリスマを利用して解放を拒む、この矛盾はもうどう
しようもないのではと感じてしまいます。
第6、街の交通機関はもっぱら自転車とバイク。ハノイではその比は半々というとこ
ろでしょうか(ホー・チ・ミン[街]ではハノイよりも、ぐんとバイクと自動車の比
率が上がります)。ハノイ、主としてバイクの排気の空気汚染のため、人々はハンカ
チでマスクして走ってる。蜘蛛の子を散らしたようなこれらの中をかき分けかき分け
て、私たちの乗ったバスが走ります。ハノイの街では交通信号はほとんどありませ
ん。目抜き通りの交差点でも、それはまれです。おまけにたまにそれがあるところで
も、ほとんど守られてはいない。自転車もバイクも自動車も、みんな勝手気ままに警
笛を吹き鳴らしながら走り回る。「経済復興を目指すベトナムの活気」なるものの正
体は、この無秩序な警笛のあらしにほかなりませんでした。
第7、ドイ・モイという政策の一端でしょう。たしかにビルや道路の公共事業があち
らこちらで行われています。でも建設機械の類は極端に少なく、ないと言ってよいく
らい。ハノイでは、コンクリート・ミキサーをわずかに見かけるくらいでした。つま
りこれらの公共事業は、すべて人海戦術で行われているのです。建設中のビルの、屋
上の鉄筋が露出した柱には、作業者が張り付いていましたし、大がかりな道路建設
は、掘り起こしも、土の運搬も、みんな直接の人手です。女性たちが群がってやって
いました。そんな工事現場が、延々とつづいているのです。
第8、現在のベトナムの大きい都会(ハノイやホー・チ・ミン[街])には、「もの
売り」「もの乞い」の子こども、女性、障害者たちがあふれています。バスがホテル
に着くと、手に手に絵はがきやTシャツを鷲掴みにした彼らが群がります。何にも持
たず!"c32 これは現在のベトナム名物の顕著な一つだというべきかもしれません。
人間を相手にして失礼な言い分ながら、そのしっこいこと、しっこいこと、文字通り
「5月の蠅」です。街を歩いて、ちょっとでも甘い表情を見せようものなら、それこ
そ何百mでも、手を突きだしてついてきます。彼らの表情、態度からして、どうやら
これは社会に定着してしまった「一つの職業・あるいは文化」としか考えられない
ようにも思えます。戦後の日本にもあった現象ですが、これほどまでだったという
記憶は私にはありません。たしかにベトナムの貧困の表れではあることには間違い
ありませんが、「ちんぴら役人」を威張りかえらす政府は、子どもたちのこのような
状態をいったいどう考えているのだろうかと、憤りをさえ感じました。
第9、もう一つ、私にとっての不思議は、ベトナムでは、国の通貨、ドンを手にしな
くても、全く困らない、日本で一定のドルを買っていけばそれで十分だという現実で
す。事実上米ドルは、ベトナム・ドンの上にでんと君臨するこの国の通貨です。自国
の興亡をかけて戦ったかつての敵国の通貨に、たとえそれが世界の基軸通貨だとはい
え、完全に征服されてしまっている社会の現実を、どう考えればよいのでしょう。ド
ル表示と円表示の間には、2桁、さらに円表示とドン表示の間にはまた2桁の差があり
ます。ホテルの枕銭の常識的な額は1万ドン、何のことはない100円です。完全に勘が
狂います。
第10、ベトナムの人々は一般に無表情です。彼らの表情は、旅行者にホスピタリ
ティを感じさせません。英語さえなかなか通じにくいという事情のせいもあるので
しょうが、ホテルのフロント(ハノイ)の場合でも、いまの日本に類似を探すとすれ
ば、みんなKIOSKの売り子だと考えておく方が、いらいらしなくてすむといった感じ
でした。そしてこの実感は、ハノイから中部の町々(フエ、ホイアンなど)、ホー・
チ・ミン[街]と南下するにしたがってゆるんでくるのは、単に気のせいではないよ
うな気がします。南に行くほど、街の治安は悪いのだそうですが。
第11、「古都、フエはいい」というのが、ベトナム観光旅行者の抱く共通の感想な
のだそうです。この街はいわば「ベトナムの京都」、ベトナム中部、旧南ベトナムの
北端に近い街です。そのことはたしかに言えるように思いました。押し売り、もの乞
いのたぐいは、バイクタクシーくらいのものでしたし、何よりもフエを流れるフーン
川の岸の公園に、朝早くから、若者たちがいたるところに散らばって本を読み、ノー
トを広げています。これは現在の日本ではちょっと見られない光景ではないでしょう
か。ハノイからここまで、辛口の印象しかもちえなかった私は、まことに救われた気
分になりました。
第12、フエでは上流の古廟を訪ねるフーン川のクルーズ。船が河岸を離れると、ま
ず最初の観光スポットは、その数おそらく3桁に達すると思われるおびただしい水上
生活者の船の群です。その日は折からの曇り空、いまにも降り出しそうな重苦しい雰
囲気の中で、例外なく子どもたちが通り過ぎる観光船に向かって手を振るのです。富
めるものと貧しきもの、ここではそんな社会的な属性には関係のない、人間同士の感
情の交流が自然にできあがっているように思えました。すでに感じていた「ベトナム
人の無表情」、それはベトナムの人々の本質ではない、はっきりとそう思えたので
す。
第13、フーン川クルーズ、やがてつぎつぎと、おびただしい数の川砂取りの船に出
会います。手製に近い大きいシャベルに綱をつけ、上半身裸の人々が、川底に潜って
シャベルを砂につっこむ、つぎに船上のウィンチで綱を巻き上げるのです。どの船も
どの船も、これをやっています。建設工事は、原料調達の段階から人海戦術でした。
上流に行くにしたがって、採取している砂の粒は次第に粗くなります。そんな上流に
1隻だけ、浚渫船らしい船を見かけました。おそらくこれは、やがてやってくるのっ
ぴきならぬ自然破壊のはしりですね。
第14、10本近くになったフイルムを、教えられて最後の街、ホー・チ・ミン[街]
で現像、焼き付けに出しました。写真店は、フジやコダックの最新の現像・焼付け機
械を備えており、出して数時間もすればできます。泊まったホテルのある街の中心の
あたりには、こんな店が群をなしています。日本の同時プリント0円というやつより
一回り大きいはがき版の同時プリントで、なんと日本で出す値段の半値くらい、40ド
ル足らず。何千円も得をしたわけですが、そこで思いもかけぬ副作用。もう20年来、
どんな海外旅行も、国内旅行と同じリュック一つの出で立ちの私には、ありがたくな
い重い荷物が増えてしまいました。
第15、中部の街々からホー・チ・ミン[街]、ちらほらと、それもかなりの数の
"e-mail" なる看板を掲げた店があるのに気づきました。多分ハノイにもあったので
しょう、気づかなかっただけだと思います。当然のことかもしれませんが、世界最先
端のITは、これらの街々にも静かに浸透をしはじめているのです。「南」の国々の21
世紀の開発の進み方・あり方に、何かしら示唆を与えられたような気のする光景でし
た。
● 車に揺られながら、読みづらい字で書き留めたベトナムメモは、掘り出せばまだ
まだいくつもあります。でもとりあえず、今日はこれくらいにしておきましょう。実
質8日間の旅で得た印象を一言でいえば、現在の日本社会を20年、40年、60年と、過
去に向かってタイム・スリップする、そこでみられる多くの社会像に、現在・最新の
それを混ぜ合わせ、こね合わせてできあがる、そんな社会をもった国、さしあたりそ
れが現在の私のベトナム像です。
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ベトナムって、「観光的によいところ」と、なぜか評判のようなんですけどね。
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