歴史資料室

   初代伊賀鉄道本線を踏襲した月ヶ瀬鉄道会社について

    月ヶ瀬鉄道会社の設立から終焉まで

初代伊賀鉄道が破綻した経緯は既に記述したとおりです。同社解散翌年の明治34年2月3日富増長守他6人発起で、関西鉄道会社上野より古山村経由名張町間12哩69鎖創設申請をするが路線はそのまま引き継いでいる。同年3月19日付東勢彦七郎外6名に月ヶ瀬鉄道敷設仮免許状の申請をする。
しかし当局からなかなか返事がこなかった。4年後の同38年11月25日起業目論見書第2項変更で伊和鉄道会社と改称している。翌39年2月某日ようやく仮免許状が下付された。代表に今村勤三・伴直之助等地元ではない。本社は名賀郡名張町に置き同40年2月某日本免許を申請した。同時に社長に伴直之助が就任している。同年8月23日本免許状を取得した。車両は全て京都鉄道会社と同一の形式車両を準備することにしていた。しかし株式募集するも初代伊賀鉄道の破綻が影響して資金が集まらず同41年10月26日やはり日の目を見ずに解散消滅した。
補足 伴直之助は京都鉄道、播但鉄道、両毛鉄道鶴支配人でおる。今村勤三は関西鉄道監査役、初瀬鉄道創業者、奈良鉄道社長を歴任している。

   月ヶ瀬鉄道が準備した幻の車両

京都鉄道社長であるが同社は明治40年8月1日国有化された経緯がある。伊和鉄道も同形式をそのまま図面を踏襲した。蒸気機関車は番号3号機1B1tタイプ3両、客車は3等4輪車は形8号同形車4両、貨車は無蓋を形1号相当9両、有蓋はなし、土運車わ形1号相当を7両が全てである。購入先は平岡工場では、しかし注文はされていない。

   初代伊賀鉄道延長線(鳥羽線)を踏襲した二見鉄道会社について

    二見鉄道会社の設立から終焉まで

初代伊賀鉄道が伊賀地方から伊勢鳥羽間に敷設計画をするが、勢和鉄道会社に路線は免許され寸足らずな宇治山田・鳥羽間のみの権利が残った。従って最早伊賀地域鉄道史とはかけ離れた存在ですから簡素に紹介する。
この区間は他に鳥羽鉄道、三勢鉄道、既存の参宮鉄道も競願したが初代伊賀鉄道に免許した経緯がある。同社は両宮鉄道会社となり本社位置が宇治山田町大字岩渕町247で社長は深山始三郎が就任していた。解散で譲渡する二見鉄道会社の発起人代表は岡山県岡山市西田町の杉山岩三郎他5名で明治33年9月7日付「二見鉄道株式会社設立発起認可願」を提出したが予定路線は踏襲している。本社は両宮鉄道会社内に同居している。同35年9月23日付本免許状が下付それた。
前年9月15日提出の工事方法書の車両編管見すると、蒸気機関車は重量22トン級1B1-n2tタンク機3両、客車は1・2等(8+16)4両、3等(50人)14両、3等緩急車4両、貨車は有蓋貨車6両、有蓋緩急3両、無蓋貨車4両、無蓋緩急車2両が全てで、形式・記号番号も決定している。これらの車両の修繕等は参宮鉄道山田工場に依頼することにした。しかしおきまりの株式募集困難で、営業見込みが無く同36年9月17日付免許状・命令書等返納を本日申し出て任意解散を実施した。

    その後での伊賀地域の鉄道敷設計画と流れ

関西鉄道会社本線と言うべき柘植・奈良・大阪方面の開通で鉄道が身近になるが、伊賀地域を縦断する上記の鉄道会社は実現ならずその後もいくつかの鉄道計画が出現している。

 明治34年2月13日付月ヶ瀬鉄道会社(初代月ヶ瀬鉄道会社とは別)名義で申請した。しかし初代伊賀鉄道や初代月ヶ瀬鉄道の悪い前例があるため当局は簡単に動かなかった。そこで同38年11月起業目論見書第二項の社名を伊和鉄道会社と変更した。一週間後の同年同月19日三重県知事古荘嘉門がようやく副申書をつけて本局に回送した。案の定当局は慎重にて審議に入らない状況がある。ここで発起人を列記すると、三重県名賀郡神戸村字古郡39東勢彦七郎・三重県名賀郡神戸村字古郡28北川傳之・三重県名賀郡箕面村夏見19深山始三郎・三重県阿山郡上野町大字魚町6広岡平兵衛・三重県阿山郡上野町大字新町45富増長守・三重県阿山郡上野町大字車坂町5光岡亀三郎・三重県阿山郡上野町大字車坂町8西久保大三郎の7人です。路線は初代伊賀鉄道時代を踏襲していて明治38年11月25日付仮免許を申請し翌年2月19日付第137号仮免許が下付された。役員に伴直之助(京都鉄道取締)監査役に今村謹三等そうそうたる人員を配し本社を名張町地内に置いた。同40年2月本免許申請し同年8月23日下付されている。準備すべき車両は、蒸気機関車は京都鉄道3号機、客車・貨車全て京都鉄道同形式である。地元から今度は実現できると期待したが経済面で有利に働かず同41年11月25日解散している。
 霧散した翌明治42年5月12日付私設鉄道法に依り仮免許を申請した会社が現れた。会社名は上名鉄道会社と称する。同年12月27日県知事の副申を添付して本庁に翌年1月6日当局が受け付けた。当局はもはや半信半疑の状態で複雑な気持ちである。区間は上野・名張は変わらず延長14哩20鎖です・起点から3哩70鎖間は過去に初代伊賀鉄道が施工した路線跡を流用するとしている。発起人を列記すると大阪市北区老松町3丁目45東良三郎・三重県名賀郡名張町字八丁54浅生為次郎・三重県名賀郡古山村湯村定之助・大阪市東区平野町4丁目9大井ト新・三重県阿山郡上野町大字新町45富増長守・東京都芝区白金末広町袖ヶ崎15伴直之助・三重県阿山郡上野町大字赤坂町77玉井定次郎である。ところが明治44年8月から軽便鉄道法施行が決まることになり同年2月12日手続き簡略化される同法に準拠して申請を仕直している。延長は14哩2鎖と短縮し軌間は2フィート6インチ資本金三十万円で企画している。対し同44年7月18日付監第960号で軽便鉄道免許を取得した。しかし工事施工認可申請期限の同45年7月17日までに具体化出来ず免許効力を失い霧散した。
補足 計画路線は初代伊賀鉄道を踏襲し使用便箋も伊和鉄道のものを使用している。
この時期実現しなかった会社として、勢賀鉄道会社阿漕・名張間30哩0鎖が明治29年9月10日申請し同31年6月10日却下及び月瀬鉄道名張・笠置間16哩0鎖が明治31年6月10日却下の記録あり。
この時期他に名前の挙がった会社に、伊賀電気軌道(明治44年9月12日却下)及び伊賀鉄道会社(大正元年7月1日却下)が存在したが詳細が分からず関連が掴めていない。

   次は実現した会社である伊賀(軌道)鉄道から3代目伊賀鉄道まで

現在の伊賀線