歴史資料室

   議題 伊賀地域鉄道史考(初代伊賀鉄道)

    初代伊賀鉄道登場の経緯

明治26(1893)年9月25日付創設願によると「三重県阿拝郡上野より伊賀国古山・名賀郡名張町及び奈良県宇陀郡三本松を経て同郡榛原町に至る間軽便鉄道を敷設し・・・・・・・・・・」初めて公式に出現した鉄道会社は、伊賀鉄道株式会社と称する。既に触れたようにこの年2月関西鉄道会社第2期線として柘植・奈良間敷設申請しています。伊賀鉄道設立はこの計画を見越して設立を図ったようだ。
伊賀西南部と大和国東南部とつなぐという壮大な計画である。翌年1月27日付早くも線路延長願「線路延長を感じ櫻井起点初瀬・榛原・三本松・名張より分岐して比奈知村・太郎生・多気・丹生を経て田丸・宇治山田から朝熊山麓を通り志摩国鳥羽港に至る」計画である。しかし申請に添付の路線図には別に勢和鉄道の競合路線が記入されている。

    初代伊賀鉄道創立事務所関連

創立事務所は三重県名賀郡名張町字本町17番地 資本金五十万円
発起人
□三重県名賀郡比奈知村大字滝ノ原129 福永岩次郎
□三重県名賀郡箕面村大字青蓮寺 森 懋
□三重県名賀郡箕面村大字夏見深山始三郎
□三重県名賀郡名張町字本町17竹原吉六
□三重県名賀郡名張町字字新町27細川治郎
□三重県阿拝郡上野町大字魚町60福田為吉
□三重県阿拝郡上野町大字農人町138高木久治郎
□奈良県宇陀郡三本松村大字古向渕68中井勇五郎
□奈良県添下郡郡山町大字九條39根岸隆吉
□奈良県山辺郡東亜村大字下笠間59新地屋敷住藤井加之松
□奈良県山辺郡針ヶ別所村大字小倉51今岡甚三郎
□奈良県山辺郡針ヶ別所村大字小倉50大西庄市郎
□奈良県葛下郡先郡美村大字畠田42池田與三郎
□奈良県添下郡富雄村大字中52田中由成
□奈良県添下郡郡山町大字北郡山136近藤悟一
□奈良県添下郡北倭村大字高山492柴田直憲
□奈良県添上郡奈良町大字池之2足代秀太郎
□奈良県宇智郡宇智村大字宇野13磯田和蔵
□奈良県宇陀郡榛原町大字上村52鷹本公巖
□奈良県宇陀郡三本松村大字三本松140西岡美亀蔵
□奈良県広瀬郡箸尾村大字菅野92村上兼太郎
□奈良県宇陀郡松山町大字 山辺友三
□奈良県添下郡片桐村大字小泉78村戸賢徳
□奈良県十市郡田原町159片岡英夫
□奈良県宇陀郡榛原村大字萩原原74子守嘉士
□大阪府大阪市東区伏見町三丁目33平田好
□大阪府大阪市東□内久宝寺町二丁目74平川靖
上記に入りませんが御木本幸吉も発起人総代に名を連ねているが名義のみのようだ。

路線調査内容

■上野名張間線路調査報告摘要
線路延長 11哩40鎖 最急勾配 50分之1 曲線最小半径 15鎖 延長率1,683 建設費 310,675円
営業収入 37,384円 営業費 12,662円 営業益24,722円 建設費に対する割合 0.080
■櫻井鳥羽間線路調査報告摘要
線路延長 71哩40鎖 最急勾配 30分之1 曲線最小半径10鎖 延長率1.683建設費6,720,651円
営業収入 261,996円 営業費 136,136円 営業益125,860円 建設費に対する割合 0.019

    初代伊賀鉄道設立までの経緯

明治27(1894)年は上申書・陳情書等官庁と書類の往復が多くなり、例えば榛原付近で勢和鉄道接続位置決定や工事方法書の変更、組織も明確に立ち上げ発起人に御木本幸吉を含め65人の大多数で、明治27(1894)年11月17日付第1工区の仮免許(上野・榛原間)が下付された。
早速詳細測量と予算を決定を実施し、具体的な見通しがでた段階の明治28(1895)年11月28日大阪市内の堺卯楼にて創業総会を開催した。一番関心事は関西鉄道会社柘植奈良間測量では三田村わ通過するとの情報を得て上野・三田村1哩40鎖延長して接続する案を了承し社長に平川靖が選ばれた。
明治28(1895)年12月12日付で本免許を申請し実現に向けた一歩となる。
さして翌29(1896)年4月30日付榛原・三田間25哩40鎖の本免許が下付された。

    初代伊賀鉄道本免許取得後の経緯

本免許下付後5ヶ月かけて再度三田村・名張間路線の測量にてね特に古山付近の8哩は比較線を検討し並行して用地買収に本格的に着手する。ついで榛原・五条間と名張・鳥羽間延長予定線の測量もしている。これでは伊賀地域限定の会社ではなく創業者の考えは飛躍していくことになる。

    初代伊賀鉄道延長線はどうなる

続けて明治29(1896)年7月16日付で名賀郡名張町から鳥羽間の延長敷設願を出願するも勢和鉄道路線と競合するため宇治山田・鳥羽間のみ許可と打診され同30年7月免許された。しかし伊賀地方とあまりにも隔たり単独区間では意味がない状況である。同32年7月14日付で本免許は取得し路線工事着手届を提出までこぎ着けたが本線同様資金繰り不可能で同33年9月7日で二見鉄道株式会社へ譲渡して全ては終わった。
明治33(1900)年6月9日社名を両宮鉄道会社と改称し上記と本線は月ヶ瀬鉄道会社とそれぞれ別会社に分割し最終的には解散する。
当時の主任技術者は西尾政典でおる。

    初代伊賀鉄道の工事進捗状況

明治30(1897)年5月下旬から第1期三田村・古山間工事を開始した。先ず城南村地内同年9月初旬から新居村、小田村地内を着工翌年1月下旬には花の木村地内にと築堤盛土路盤工排水溝等全てにわたり開始した。沿線の人々は具体的に目の前の状況を見て興味と期待が膨らんでいた。特に橋梁が14カ所あり内長田川・久米川・服部川の橋台、橋脚は早くも完成した。明治31(1898)年5月中旬上野停車場ホーム及び貨物積み卸し設備が翌月には機関士同助手用社宅一棟も竣工した。この時点で用地買収は総面積39町3反9畝18歩のうち56パーセントが完了している。関西鉄道上野停車場構内連絡方法は設計協議が纏まらず工事は未着手である。花の木村までは土工事は完成した。しかしこれ以降は資金繰りが悪く明治31(1898)年8月10日新聞記事に伊賀鉄道の内項として株主と重役と紛争あり工事資金も苦労しているとのこと、結果は古山村・名張町間は中止で市町村との用地交渉は中断し既に工事進捗中の区間はこの時点で凍結する等将来の見通しが暗くなる。

    初代伊賀鉄道の車両について

明治29(1896)年1月10日目論見書によると機関車3両客車・貨車60両と具体的な数量がでた。
蒸気機関車3両は米国に注文し、明治30年10月鉄道作業局工場に依頼して組立が完了したが肝心の本線が未完成なので同局へ一時貸し渡している。土運車は20両購入するも納品前に内16両を売却しているが行き先は不明です。先行注文していた、客車は1・2等仕切客車2両、2等客車3両、3等客車5両、郵便小荷物仕切緩急車3両、貨車は無蓋3枚側貨車8両、無蓋緩急車2両、有蓋貨車12両、有蓋緩急車2両の注文品は完成したが製造会社から受け取っていない。どこの製造メーカなのか記録が無く不詳です。他に契約解除した車両は、3等客車13両、3等緩急車2両計15両です。
蒸気機関車3両の消息は、1〜3号全車を明治30年10月鉄道作業局に貸出内2号機を同31年9月から返却を受け尾西鉄道に売却され同社乙形2号となり、明治44(1911)年鉄道院の190形2両と交換し2号は2850形2852となる。1・3号機は同31年8月31日貸出期間の満了で返却を受け同32年1月から中国鉄道に貸し渡している。中国鉄道は前年12月21日岡山・津山間開業した新会社で、同社も渡りに船であったようだ。伊賀鉄道が売却先として阪鶴鉄道を見つけ1年後の同33(1899)年同社A5形12・13となつた。
客車の売却先等は記録が見あたらず不詳ですが今西林三郎に客車10両を賃貸中同氏が南海鉄道難波車庫に保管中火災で焼失したとの記録がある。いずれにしてもどこかの私設鉄道が購入しているはず。貨車についても全く不明です。興味あるのは関西鉄道会社や周辺の私設鉄道会社がどう動いたかである。
宇治山田・鳥羽監延長線用として蒸気機関車(forewheelcorpledTankEngine)は参宮鉄道が盛んに走らせているNasmyth,Wilson製を参考にしている。客車と貨車も同社と同形を予定していて、相互乗り入れを視野に入れている。

    初代伊賀鉄道は解散により実現できなかった

先にも触れたように、設立当初の計画からかけ離れた流れとなり株募集もままならず係争事件も起こり建設途中から資材や保管品を売却するという事態で、しかも同様に勢和鉄道会社も先に同じ運命を辿り伊賀鉄道も建設した路線を残し明治33(1900)年6月9日社名を両宮鉄道会社と改称した後同年11月8日任意解散している。
同26年創設願から7年間一度も機関車が走ることなく幻の鉄道として歴史から消えて、今日で108年も経過し鉄道史に埋もれた会社です。

  一度正面玄関に戻ります