第2特別室 この部屋では参宮鉄道の客車と貨車を公開する

T. 謎の手荷物緩急車(3軸単車)について
参宮鉄道がら国有化で引き継いだ客車は、明治40年8月24日付け公式文書によると同社所属総数88両である。内訳の記録がなく鉄道局年報の内容を管見すると次のようです。1等車(単車)2両、1・2等車(単車)5両、1・2等車(ボギー車)1両、2等車(単車)4両、2等車(ボギー車)1両、2・3等車(ボギー車)2両、3等車(単車)53両、3等車(ボギー車)5両、3等手荷物緩急車(ボギー車)1両、3等手荷物緩急車(単車)10両、3等郵便手荷物緩急車(ボギー車)1両、3等郵便手荷物緩急車(単車)3両、以上が全容です。
上記の種別からは、手荷物緩急車(3軸車)は存在しません。それというのも引き継いだ客車をまとめた直後の「客車略図上巻」明治45年版には、該当車両が掲載されていませんその後に出た「客車形式図上巻」大正14年版に突然現れました。明治34年9月参宮鉄道山田工場製2両と同35年4月日本車輌製2両の計4両です。公式統計には出ていなく精査すべき事柄です。
この形態は珍しく全国的に眺めても多くは見られません。ところが関西鉄道に同類がありました。明治24年3月英国バ゛ーミンガムのミッドランド鉄道車両製で3等手荷物緩急車3・5・6号の3両在籍した。ですから大変特異な存在でどのような経緯で参宮鉄道が採用したのか又どのような意図で現れたのか現時点では解明していません。この車両の仕様を見ると全長26フイート10インチ幅8フイート1インチ高さ12フイート4・1/2インチ自重8.25屯、手用・真空制動機付き、室内灯は油・ガス灯付きで外形は、高さがある二重屋根の切り妻は独特の形態である。欠番が3両分出てい代替えなのか?史料が少なくもう少し検討しないと結論に至らない。

U. 唯一関西鉄道工場で製造した三等客車(2軸単車)について
参宮鉄道客車の製造は、開業時は全て東京・平岡工場に注文していた。その後三田製作所、松井製作所にも発注しているが明治35年2月からは自社山田工場でも1・2等客車を製造している。同36年以降大型ボギー車の製作は、このクラスの製造は実績豊富な日本車輌や汽車製造が独占していた。延べ10両を製造しているが当時としては大型である。その多くの製造会社にあって何故か後にも先にも明治33年9月6両が関西鉄道にて製作した。この年大阪鉄道を合併し湊町工場も加わるが表題の客車は四日市工場製と考えられる。関西鉄道自家製の四日市工場製は81両ほど存在する。この年に一番近い車両は、記号番号229-231ですが2等ボギー客車(売店付)で参考になりません。参宮鉄道では形式称号に記号番号39〜44の3等客車(単車)で定員48人乗りは標準形でした。両社は最後まで合併していないのは優良会社のためとか。両会社の共通部分は、津停車場で配線が接続しており相互乗り入れも行われ別会社のような違和感がなかった。

V. 形式称号わと呼称する二三等客車合造車(ボギー客車)が在籍した
参宮鉄道客車の形式称号は、い・ろ・は・に・ほ・へ・わ及び貨車は、と・ち・り・ぬ・る・をまでで何故かのみ客車の分類に存在していた。製造会社は、わ1号(日本車輌明治40年4月)及びわ2号(汽車製造明治40年5月)と各々別会社とは面白い外観からは違いが見られないが内部構造に相違がある。幸い公式写真が2両とも残っている。関西鉄道客車の明治35年頃同社四日市工場製によく似た作りです。製造されて半年もたたない内に同40年12月に国有化されているが買い取り価格は新造車同様である。

W. 国有化後のハユフ3511形(三等郵便緩急車)は元参宮鉄道の車両か?
大正14年版の形式図に、前所有者元参宮鉄道と記載されたのがハユ3511形3511~3533で明治30年3月三田製作所製があります。同社製造を列記すると形式称号に 25〜26・28〜31・34及び
ほ1〜3が該当します。国有化でハ2353形2377〜2381・2384と改番され2384以外は、種別変更されたと思う。ほ1〜3は3473形3473〜3475と3等郵便合造車で在籍しこれが該当するようだ。開業時には、3等手荷物緩急車形式へ1〜4がありましたが郵便輸送専用車は存在しなかった。そこで4年後登場したのが形式ほである。定員8人郵便室2.0頓自重5.8頓の全長8.1メートルの2軸車で大きさは当時の標準タイプです。直後表題の種別に変更されされたと考える。しかし注意してほしいのは、公式統計資料数量とは合致していません。いずれも著者の推定と独断です。