歴史資料室

   議題 伊賀地域鉄道史考

   鉄道史初登場の伊賀地域関連
大阪鉄道会社が明治20(1887)年1月31日付「鉄道会社設立並鉄道敷設願」の記述中に、大阪より大和今井町、以東は伊賀を経て勢州四日市に至る、大和国より分岐して同国奈良および紀伊国和歌山に至り布設の儀に付き・・・・・・・・・・・・大阪鉄道会社発起人14名連名

   関西鉄道会社申請の「鉄道会社設立並鉄道敷設願」

関西鉄道会社が明治20(1887)年3月30日付「鉄道会社設立並鉄道敷設願」の記述中にね大津・柘植村経由四日市、将来は延長して桑名、熱田に達する、伏見・奈良を経て大阪、京都、宮津に至る間・・・・・記述のごとく路線計画は旧東海道筋から外れ鉄道の特性を考慮した計画です。地理的には険路な鈴鹿峠通過は困難で加太隧道を掘り柘植経由を選択している。

   大阪鉄道会社線路実測と不許可

大阪鉄道会社により明治20(1887)年4月11日から路線実測・建設計画等具体的に開始する。三重県側の上柘植村・四日市間に関しては、同時期申請の関西鉄道会社の線路敷設計画区間と競願の結果三重県当局から不許可の伝達あり計画路線から除外する。

   関西鉄道会社と大阪鉄道会社競合で両社とも実現せず

両会社からの奈良・四日市間競合路線区間での折り合いが決着せず、当局の指令で判断された結果、両社とも奈良・柘植間の路線が免許されない状況となる。皮肉なことにこの伊賀地方区間は空白ができてしまった。

   伊賀地域に鉄道史初の鉄道が出現した。

三雲停車場・柘植停車場間20.6kmが関西鉄道会社により明治23(1890)年2月19日延長開業で、伊賀地域に歴史上一歩(三重県としても初)を踏むことになる。東京・大阪方面が鉄道交通圏内に入る。伊賀の人々は徒歩や人力車で上柘植停車場まで少し距離があった。118年前の道路事情や交通運搬方法それに地形は今日では想像できない。
この区間の開業日に先立ち明治23(1890)年2月15日関西鉄道会社社長中野武営名で、沿線住民関係者等に案内状・無料往復乗車券(草津・柘植関)を送付し、別段祝賀行事はなく四日市まで開通の時点で盛大に挙行する旨記述されている。ただ沿線住民は花火を揚げて盛り上がった。

  柘植からの延長は四日市方面を優先

関西鉄道会社としては、上柘植村と鈴鹿郡加太村境界に加太山等山岳地帯に路線を敷設する第2工区は一番困難な工事区間で、特に加太隧道貫通の工期に掛かっていた。

  関西鉄道会社加太隧道について

  関西鉄道会社第2工区とは

明治20(1887)年3月20日付「関西鉄道会社創立願書」の内容に、先ず大津・四日市迄凡25里は直ちに着手し・・・・・とあり、途中に諸々の経過後の明治21(1888)年1月23日付「関西鉄道会社設立並起業の儀に付請願」では、草津・四日市間桑名・四日市間川原田・津間3線同時着手・・・・・・・とあり。
これに対して明治21(1888)年2月3日付全ての区間の免許状を取得した。具体的には、工事総監督に工科大学教授白石直治を嘱託に任命し、比較的工事の困難な第2工区(関・上柘植間)の担当監督に明治21(1888)年3月1日付で井上徳治郎技師が担当する。鈴鹿山脈に3本(金谷・坊谷・加太)の隧道を掘る必要があり中でも加太隧道が最難関です。

   加太隧道建設概要

当路線予定位置決定までには、太田六郎技師が本免許取得のため明治19(1886)年3月から再三現地測量を実施して概略決定していた。いざ本免許取得により具体化的な内容となれば、予算費用軽減が会社の命運を左右する要素で、一番建設費が費やされる加太村・上柘植村間の路線位置決定が会社存続の注目となり、当初の延長60鎖(1207m)区間を見直す事になり、スイツチハ゛ック等も考慮した結果延長45鎖30リンク(911m)に短縮できたがその分勾配は1/40となる。建設は加太東坑口(標高270.0m)から25鎖10リンク(504.9m)の谷底位置に竪坑を掘り東西別々に柘植西坑口(290.0m)両方向とした。
柘植西坑口からは、明治22(1889)年1月10日より工事を開始した。竪坑掘り下げ明治21年(1888)年11月27日から先行開始し深さ29.4mの予定位置に到達したのが同年4月17日で、3日後ここより東西に向かって掘進を始め工事期間の短縮を図る。貫通は竪坑・柘植西坑口間が明治22(1889)年8月22日、竪坑・柘植東坑口間が明治22(1889)年10月7日、中心線、高低差の精度も抜群であつた。工事は会社直営とし人員派遣を福田組に請け負わせて、竣工したのは翌23(1890)年12月初旬で関西鉄道会社最大の懸案が遂行できた。

竪坑とは 加太隧道に採用した竪坑について

隧道建設工期を短縮する一手段として考え出された工法で、木枠製筒の大きさは直径6尺×長さ15尺(1.82m×4.55m)で3分割されており水替蒸気ポンプは外国製、巻揚げ機械等は石川島造船所製を用意している。1日の掘り下げ速度は人力のため平均60cmと見込んで居る。巻立て用煉瓦は参百萬個調達する必要上現地の近くに煉瓦製造所を設けた。地形的にも今日では想像も出来ない不便で交通機関も未発達な当時としてはどこの鉄道建設も同様である。現在でもこの竪坑は加太隧道の山上に蓋をされた状態で見ることが出来ます。

  関西鉄道会社柘植・奈良間延長について

   関西鉄道会社柘植・上野・奈良延長について

第1期工事として草津・四日市間及び亀山・津支線が明治24(1891)年11月3日開業、やや遅れて四日市・桑名仮間が明治26(1893)年7月5日開業で所期の目的が達成された。
並行して第2期工事を進めるべく計画が具体化し、明治26(1893)年2月18日付桑名・名古屋間及び柘植・奈良間路線延長申請を提出した。名古屋方面の免許はこの年早々に下付されたが、柘植・奈良間は翌年7月31日仮免許取得し路線図面工事方法書予算書等用意して同11月16日本免許申請し翌28年1月28日付免許状が下付された。第1期建設時の技術嘱託白石直治は社長となり井上徳治郎技師が主任技術員として建設部門の代表として活躍している。柘植停車場から分岐して島ヶ原までは比較的平坦地であるがその先加茂付近までは木津川横断や同川に沿うため工事が困難な区間となる。

    柘植・加茂・奈良間予定路線

先に触れたように本免許を受けて直ちに準備に掛かり本社建築課長那波光雄が総監督に任命された。施工は請負方式とし第1期工事から従事している三重土木会社や杉井組・鹿島組等10社近い業者を選定し明治28(1895)年12月起工奈良方面に向かって工事を開始した。
柘植・奈良間の路線地形はどのような状況なのか順を追って概観してみたい。柘植停車場の位置と方向は、東柘植村内を東西に通過している大和街道沿いから0.5km離れた北方向でここより分岐して大回りして西に転換下り勾配16〜10ハ°ーミリで東側には標高250m級連山裾と右側の伊賀川に挟まれた間を府中村に佐那具停車場を置く、ここより大和街道が上野町へと離れるが路線は山裾を西進している。この先10ハ°ーミリ程度の緩やかな勾配を三田村に入り上野停車場を設ける。同駅はなぜか上野町より約2.0キロメートル離れた位置に設置したか明確な答えを得る史料を確認していないが、一説に上野地内経由の場合建設費が嵩むため地元の負担を要望した。しかし負担に対する結論が纏まらず。次駅予定の島ヶ原停車場は7km西進するが伊賀盆地の周辺部の起伏のある地形を抜けると阿山郡島ヶ原字広垣の集落に設置する。次の大河原停車場予定地までは、木津川右岸に沿って起伏の地形で勾配も25ハ°ーミリが続き、護岸、擁壁及び切り取りも多く加えて隧道が3カ所あり鹿島組が請負っている。島ヶ原との標高差61m下がる。当駅予定地から右岸は伊賀街道が山裾を這うように道が続くため路線建設が困難と見込み木津川を径間172mの橋梁を杉井組(代表杉山定吉)請負で横断し、左岸の切り取りと擁壁を連続築造して柳生街道を越えた位置に笠置停車場を設けている。建築課長那波光雄管理は厳しく建設は最高水準で斯界の模範とした。これより6km先の比較的平坦地加茂郡加茂に停車場を置いた。この先についてはやや複雑な経過を辿るため別項で解説する。

    柘植・佐那具・上野・島ヶ原・大河原・笠置・加茂間開業日

全区間一斉に明治28(1895)年12月中起工し、柘植・上野間比較的建設が容易でありおよそ工期1年、翌年12月竣工し、同区間は明治30(1897)年1月15日延長9哩8鎖(14.65km)開業は、名賀郡・阿山郡等伊賀地域に大きな利便性をもたらし、人と農産物・木材等も大きな流通網に入り経済的にも影響を与えた。鉄道が未開業時代は、草津から荷車・人力車・徒歩が交通手段であったが、道路事情は今日では想像がつかないほど狭くかつ悪路であつた。残区間の鋭意工事を進め少し10ヶ月遅れて明治30(1897)年11月11日延長16哩16鎖(25.98km)開業している。この区間の特色は、近い将来広軌化(1435mm)も視野に入れて、ト゛イツ規格を採用し木津川橋梁橋脚建設でも分かるように、狭軌単線の橋としては余裕を以て敷設されている。

ここで視点を変えて局地鉄道を次のヘ°ーシ゛に紹介する。

一度入口に戻ります