伊賀線史話 創業期から3代目伊賀鉄道まで興味ある事柄を紹介(第3章)
関西急行鉄道 昭和16年(1941)年3月〜平成4(1992)年11月

1.大阪電気軌道と参宮急行電鉄合併で誕生した大会社。

その1,関西急行鉄道時代に伊賀線所属車輌を改番をした。

大阪鉄道(南大阪線)や伊勢電気鉄道(名古屋線・伊勢線)等が合併されていたので全ての車輌に対し統一した形式称号。記号番号の変更があり各線別にすぐ判るようにする。
電気機関車デ1形1・2→デ8・9、手荷物室付電動客車デハニ1形1〜6、木造有蓋貨車ワ101形101〜102→ワ9061形9061〜9062、ワ103形103〜105→ワ9063形9063〜9065、木造有蓋緩急車ワブ10形10〜11→ワフ9031形9031〜9032、木造無蓋貨車ト51形51〜53→ト9051形9051〜9053と変化した。しかし貨車は自社線内専用で省線に乗り入れは出来ない。

その2,創業以来の伊賀線車輌に初めて他線から転属入線する。

戦時中は資材不足で補助が困難な最悪の状況となり昭和18年吉野線から1両の木造電動客車を転入させた。ところが不運にも翌年10月豪雨により道床崩壊で脱線事故破損に遭遇し休車に追い込まれた。あわてて代行車として同線より同型車を別に持ち込んでいる。この年大阪鉄道会社や南海鉄道そして信貴山急行電鉄、南和電気鉄道が合併している。

その3,国策により出現した会社は短命な終わる。

正味3年3ヶ月しか存在していない。国家総動員法により重要産業団体令、金属類回収令、配電統制令、加えて陸上交通事業調整法にて不要不急路線の休止等の処置が執られた。

近畿日本鉄道 昭和19年(1944)年6月〜昭和52(1977)年3月

1.関西急行鉄道と南海鉄道合併で誕生した大会社。

その1,陸運統制令により老舗の南海鉄道も合併で消滅した。

南海鉄道を昭和19(1944)年3月3日合併締結しているが本来は伝統と歴史が大きく相違し、環境も違う両社も歴史に翻弄された結果で満足した結果でないことは終戦で早々と分離した。車輌の移動は電気機関車のみで、その他も形式称号の改変もなく車輌移動もなくいずれは元に戻ることを見越していた?結果は資本金2億3千の近畿日本鉄道が誕生した。規模が大きくなり管轄組織では。4つの営業局に分け内難波営業局に属した。伊賀線は上本町営業局である。

その2,陸上交通事業調整法にて、不要不急路線休止に早速対象にされた伊賀線の部分あり。

伊賀線は対象から外れていたが昭和20年6月に西名張・伊賀神戸間営業の休止が行われた。加えて鍵屋の辻・広小路・四十九・市部・上林各駅が営業休止の処置を執られた。

その3,南海鉄道は、分離したが伝統ある社名が復活せず。

戦後の事情は大きな組織を必要とせず早くも両社は昭和22年2月別会社となる。伝統の南海線は高野山電気鉄道に、社名は南海電気鉄道と変更し旧南海の所属路線は元に戻る。

その4,戦時中の伊賀線では、戦闘機から機銃掃射を受けた出来事あり。

終戦の1週間前の昭和20年8月8日比土・丸山間走行中のモ5181形1両が機銃掃射で銃撃されて20数名が死傷している。おそらく米軍操縦士は弾丸を使い切るため気まぐれで実行したと思われる。

その5,戦後に伊賀線の休止区間等が復活する。

戦争時の諸規定が消滅し再び翌21年3月15日西名張・伊賀神戸間が営業復帰させた。約10ヶ月休止中の路線や設備等の状態はどうであったか不明だ。営業運輸以外は問題なかったのか。西名張・伊賀上野間26.3qkの営業区間で途中駅は蔵持駅のみ復活し残り美旗新田・西原両駅は同23年4月であった。

その6,伊賀神戸・西名張間に、桔梗が丘駅が一時期存在したように見えた。

昭和39年10月1日当区間(9.7q)は大正11年7月開業から42年目にして廃止されている。勿論同駅は大阪線のこの辺一帯に造成された桔梗が丘住宅地のための駅であるが新設条件として、廃線に伴ういきさつもある。同駅建築中はホームぎりぎりでモ5181形等が停車してもおかしくないようなまるで伊賀線の駅のように見えた。今日では想像も出来ない風景でした。

その7,廃止された駅が2箇所あり。

昭和20年6月以来休止された鍵屋の辻・四十九両駅は、実は同44年5月まで書類上は存在していたが当日でもって廃止された。鍵屋の辻駅は戦後もしばらく待合い用建物が残り30年代後半まで駅跡が見られた。44年経過後の今では開化寺横にやや広い弘化敷地が残っている。四十九駅は道路橋の真下で気が付きにくいが少し痕跡は残る。

その8,伊賀線に元信貴山急行電鉄の展望型車輌が入線する。

戦争終結の翌21年12月伊賀線に窓が大きい洒落た雰囲気の見慣れない電動車2両が登場した。従来のリベットの目立つ角張った車体と違い変わった台車に広幅窓にRがあり室内も明るく一見新車かと見間違う車体が異彩を放った。元信貴山急行電鉄が昭和5年12月高安山・信貴山門間と山頂を走らした会社で3両の内1両は転落事故で廃止された。同19年1月不要不急の対象にて休止会社となり車輌は山を下りて軌間同一の南大阪線に一時保管された。その状況のまま同年4月関西急行鉄道と合併した。翌21年12月当該車輌2両がとのような経緯の結果か判らないが伊賀線に応援として入線した。

その9,吉野線から木造車が一時期多く応援配属される。

近鉄時代となり早くも応援も含めて多数の木造車が南大阪線・吉野線支線から転属している。昭和18年電動客車モ5153・モ5156が次いで小荷物室付木造制御車クニ5432しかし南大阪線に帰属させた。交代に手小荷物室付電動車モニ5162転入し改番でモニ5171となる。モ5153は後に事故を起こし制御車に変更でク5153となりモ5251形の相棒となる。しかし昭和35年10月消滅している。モ5156も翌年9月廃車された。やや遅れて同30年9月入線したモニ5171も5年余在籍後同35年5月姿を消し吉野鉄道木造車は全滅した。廃車後の車体は西名張車庫や大阪線名張車庫にしばらく見られた。

写吉野線木造車の一例



元吉野鉄道が大正12年11月川崎造船所兵庫工場にて製造した木造電動車である。形式はデハ1形3号でしたが関西急行鉄道時代にモハ5151形5153に変更され昭和19年伊賀線に応援転属されるがこの年天災で転覆事故を起こししばらく休止された。後電装解除されてクハ5153となりモ5251形の相棒として長く運用されるが同35年10月廃車された。解体を免れ西名張検車区構内で倉庫として使用されていたが廃線とともに解体されて永遠に消滅した。

その10,伊勢電気鉄道の車輌が入線していた。

元吉野鉄道関連の木造ボギー電動客車の事は、前記に記述しましたが昭和35年7月養老線から半鋼製制御車1両転入から過去の車輌群の入れ替えが始まる。同じく同線から半鋼製手荷物室付電動車2両が入り少しは近代化された。しかし元伊勢電気鉄道車輌(モハニ234)で名古屋線の広軌化時の余剰品で養老線へ転入し当線へこれらも昭和52年3月に短命で姿を消した。理由は次の項にが理由である。
その11,伊賀線伊賀神戸・西名張間廃止時の写真公開。
伊賀線の廃止
写真説明  西名張駅構内で架線や電柱が撤去され伊賀鉄道時代を彷彿される。
伊賀線の廃止後
写真説明  中間駅の一つ蔵持駅構内を西原駅側から眺める。砂利道であるが現在では完全舗装され佳日の雰囲気は残らない。

その12,昭和52年以降は伊賀線に大きな変化が見られる。

この年は永年続いたタブレット閉塞方式を単線自動閉塞とATSの第1次近代化が行われた。これは会社全体の第5次輸送力増強計画の中で行われている。この改良工事で車両も全て変化している。創業以来の電動車6両、電気機関車2両や11形式も存在した貨車群も姿を消している。詳細は次ページ

閑話休題 興味から外れたファンお疲れ様、視点を変えて名古屋線江戸橋駅物語を紹介します

現在の江戸橋駅の位置は三重県津市上浜町2丁目で、平凡な駅舎が建つ普通の駅で特に目立つものがない。本題に入る前に、この地名はいつ頃から出現したか探りますと江戸橋地区は志登茂川に架設されている江戸橋土橋(最初は西暦1700年代架橋で長さ25間幅2間)の反対側一帯を表し歴史をさかのぼると安芸郡上部田村集落で伊勢参宮街道沿いにある。比較的名称は新しく江戸時代に名付けられたとか。しかし鉄道史的に見ていくと変化が激しく驚きの場所であった。

その1,伊勢鉄道会社開業時には江戸橋駅は存在していない。

大正4年(1915)年9月一身田・白子から開業し初期免許区間逐次進め全線開通した時点では、江戸橋駅は計画にも出てこない駅名でした。大正5年6月津市停車場を搭世橋停車場に変更し、そして起点から1哩30鎖に地元の要望もあり江戸橋停留所を新設することにした。この地域は鉄道院津停車場が近くにあるが離れていた。。現在の同駅より位置は南方向であった。

伊勢鉄道時代江戸橋停留所配線平面図

その2,伊勢電気鉄道に近づいた参宮急行電鉄はどこまで。

伊勢電の天下で大神宮前駅から桑名駅間電車化され桑名より名古屋までも企画されていた。他方大阪電気軌道。参宮急行電鉄も大阪から伊勢方面まで足が伸ばしてきた。名古屋方面にも食指を張り巡らしす事となり中勢鉄道久居・中川間免許線を足がかりして昭和5年5月同区間を開業し次いで久居・津新町に同6年7月そして省津駅構内まで乗り入れた。この先の予定は参宮線西側に沿って敷設して行く予定である。しかし業界の変化があり昭和11年9月伊勢電も参宮急行電鉄の軍門に下る。同13年6月桑名以北が関西急行電鉄として開通した。津駅で止まっていた参宮急行電鉄津線は線形が変わり鉄道省参宮線を乗り越えて伊勢線と接続を昭和13年6月江戸橋駅に完成した。内容は単線・広軌でのある。

参宮急行電鉄津線広軌軌間時代配線平面図

その2-1,伊勢電気鉄道に乗り入れる参宮急行電鉄計画があった。

昭和6年3月頃参宮急行電鉄が津駅まで延長開業しその先高田本山(一身田町)から桑名までを路線を新築せず伊勢電気鉄道既設線に、狭軌に1線広軌用軌条を増線する案を提案したが実現していない。

その3,伊勢電気鉄道買収時点から参宮急行電鉄との接続地点を模索する。

初期の計画案(昭和9年5月頃)は3案ありその1、鉄道省津駅手前で東側に立体交差させて伊勢電津駅と接続 その2、津新町付近で参宮線と線路交換し伊勢電津駅と接続する その3、参宮急行電鉄がそのまま西側に路線を延ばし高田本山付近で接続する等が考えられていた。しかし合併が成立で現在の路線のように建設された。しかし広軌と狭軌で相互直通は不可能である。この先江戸橋。逆川までは急曲線、狭軌単線区間と津・江戸橋間も広軌単線が長く続き不便である。又合併話があった頃に新松阪・大神宮前間並行区間を廃止する案があった。

その4,参宮急行電鉄中川・江戸橋の広軌軌間を狭くする。

昭和13年10月頃その2に記述したように接続したが名古屋駅まで開業させた。効果が出て予想以上に乗客が増加し中川から単行による方法は意外と不便で逆に名古屋線を中川駅に直通させて接続した方が乗客に対して便利と判断した。そして実行は同年12月6日夜から6時間で全区間一度に1067ミリメートルに改軌された。この伊勢中川駅乗り換えスタイルは昭和34年11月まで続くことになる。

参宮急行電鉄津線軌間狭軌時代配線平面図

その5,近畿日本鉄道江戸橋駅伊勢線最後の頃。

大阪・名古屋間直通客利用者が増加するが伊勢中川駅で乗り換えは評判が良くなく、未だ名古屋線には急曲線(江戸橋から高田本山間は蒸気運転時代の名残の区間で一身田町に線路が曲がり逆川分岐まで単線のままであったが、昭和30年7月この間0.5qを複線化し短縮している)や単線区間もあり昭和30年代初期から広軌化を考えていた。特に揖斐・長良川と木曽川橋梁は、関西鉄道時代の橋梁で、鉄道省時代放棄していたが伊勢電鉄が譲り受け関西急行電鉄時代に利用するが何分年代物で列車速度制限していた。昭和32年10月から広軌・複線用橋梁架設を昭和34年9月竣工した。軌条は単・複線用の4線軌条が準備されていた。その直後同年同月26日伊勢湾台風で名古屋線が甚大な被害を受けた。その復旧を兼ねて全区間を同年11月から広軌化工事に着手した。20日に久居・江戸橋間が軌間拡幅開通で伊勢線とき分離されている。前回の状況と違い伊勢線は新松阪まで独立線となる。

近畿日本鉄道名古屋線江戸橋再広軌化伊勢線分離配線図


その6,近畿日本鉄道江戸橋駅現在配線平面図。
狭軌で残る伊勢線も昭和17年8月新松阪・大神宮前間廃止後並行区間として残ったが赤字に悩ませられていた。昭和36年1月惜しまれつつ江戸橋・新松阪間が廃止された。
名阪間特急利用客が逐次増加するに及び津・津新町間が昭和36年8月複線化し、最後まで残る津・江戸橋間も同39年3月ようやく複線化が完成で江戸橋駅に待避線が作られた。伊勢中川駅でスイッチバックで大阪・名古屋間特急を運行していたが折角の広軌化した意味が無く間、昭和34年に路線免許取得した一志町・久居短縮線は用地獲得が進まず今日も走る中川駅構内の短路線で解決し同38年に免許線を廃止した経緯あり。

近畿日本鉄道江戸橋駅(現在)配線平面図
閑話休題第2話 戦時中一時期近鉄名古屋線が国鉄関西線に乗り入れた話

昭和20年7月24日交通機関の破壊を狙って米軍戦闘機より関西線や近鉄名古屋線の爆撃で、両方の路線と揖斐・長良川橋梁が被害が受けた。近鉄側レントラス橋の被害が大きく2連が落下して致命傷となる。元関西鉄道会社が明治28(1895)年架設の払い下げ構造物で、運行は中断し国鉄関西線が唯一動いていたが戦争末期の状況の中資材不足等が重なり復旧の目処が立たない。しかし4ヶ月経過した同年11月25日幸い軌間が同じであるので、最も接近して並行している関西線長島駅より長良川堤防近くと、反対側は揖斐川先と桑名駅間にある大山田川付近の2カ所に渡り線として架線を巡らし電車が蒸気機関車と相乗りした。揖斐・長良川橋梁を困難の中復旧に着手し6ヶ月余の月日を費やして翌年5月完成し元の路線を自社電車が再開した。接続施設と架線は撤去された。この異常な状況の写真を見たいです。

近畿日本鉄道名古屋線桑名駅・長島駅間国鉄関西線乗り入れ配線図

次は近畿日本鉄道(昭和52年4月〜平成19年9月)を紹介