第五十二話
幼虫去った 菜のハタハタを 風威す

 芋虫と毛虫は季語でもある。芋虫は初秋、毛虫は初夏である。俳句にも何気なく詠われたりはしているが、むしろ悲観的な存在である。

しかし真正面から眺め直してみると、こんなものにも自然が限りなく神秘的なものであることを悟らされる。
 ある歳時記本に依れば芋虫は菜虫、青虫と同義語のように扱われている。又「揚羽蝶(アゲハ?)の幼虫で・・・芋の葉を喰う」とも書かれている。この二、三行の解説文に触れた時、あまりにも大雑把な書かれ方にびっくりした。
 菜虫青虫はおそらくシロチョウ(モンシロチョウ、スジグロシロチョウ、キチョウ等)の幼虫を指していると思われる。青虫が野菜類に群がっているのはよく見かける。


<芋虫3>青虫、即ちシロチョウの幼虫。
今年ブロッコリーにシロチョウの幼虫(青虫)が来て、さんざん食い荒した後にオンブバッタが襲来した。

蛹、シロチョウの幼虫(青虫)が変身して蛹となる。
細長い舟形をしているので、その複数が一葉に居並ぶと、出漁軍団が勢揃いしている如くである。さながらブロッコリーの葉っぱが小さな大海(?)の様を呈している。
 
“幼虫(ムシ)去った 菜の??(ハタハタ)を風威(オド)す”

 青虫は揚羽蝶の幼虫ではない。アゲハの幼虫が喰うのは柑橘類(ナミアゲハ、クロアゲハ等)やセリ科植物(キアゲハ)である。しかし普通よく見るアゲハ類の幼虫の殆どは芋虫スタイルであることには違いない。但し芋の葉を喰うのは一般には蛾(スズメガ等)の幼虫なのではないか。
 こうして見ると俳諧の世界では感覚重視で、正確性は二の次のようにも見て取れる。
 ところが同本の「改版に際して」の「序」文に<・・・歳時記も、ある年月を経過するうちに、どこか物足りぬ点を生ずるので、作者達は、更に新しい歳時記の出版をもとめ、或いは自分の手で改良して見たいという気持ちが起る。そうして自ら筆を執って理想の歳時記を書くのであるが、また年月を経るうちに多くの不備の点を発見するという結果になる。それは自然現象が、観察研究に一生を要するほど広く深く、これと関連する生活がまた頗る複雑なるがためであり、一方にはまた俳句の傾向が年と共に変わってゆくからである。・・・>と前書きされている。
オンブバッタ、青虫が居なくなった・・・と思ったら、今度はバッタ達がたむろしていた。大海に漁船といった風情である。
 それぞれの専門分野のエキスパートが集まって編纂したとしても、完全無欠はどだい無理な話なのである。すべては日進月歩しているのだから。
<芋虫4>スズメガの幼虫がヤマノイモの実をかじっているところである。故に”芋虫”と呼ばれるようになったのでは・・・。  更に続いて「・・・叩き落すと毛虫はモクモクと逃げ出すが、芋虫は・・・じっと静かにしている・・・」とある。毛虫がモクモクと歩いていると言えば、よく出くわす道路横断中のクマケムシ(ヒトリガの幼虫)を思い出す。確かに芋虫は毛虫の様に唯ひたすら逃げ廻るといったイメージは伴わない。その表現、目の付けどころが面白い。その行動の違いはいったい何からきているのだろうか。「両者の違いをもっと観察してみては・・・」と逆に尻を叩かれている思いがする。

著名俳人の句を列記してみると、

 
 “芋虫に命細りし女かな”(虚子)
 “芋虫のしずかなれども憎みけり”(誓子)

まあ、よくぞ嫌われたものだ。毛虫も同じように「毛虫の如く嫌われる」と言われたり、「蠢いているのを見ると寒気がする」などと全くひどい扱いを受けている。冷遇されている例が多い。そればかりか、焚き火で焼き殺されたりもする。まったく酷い仕打ちである。
 
“古りし宿毛虫焼く火をかかげけり”(秋櫻子)

蕪村の句に、

“朝風に毛を吹かれゐる毛虫かな”(蕪村)

というのがある。自然の中に生かされた姿にほっとする。救われる思いだ。


<毛虫2>クマケムシ、ヒトリガの幼虫。よく里山の道路などを横断している。
 別の歳時記には、方言で毛虫は<京都ではホウジョウムシ、堺ではジュウボウ、長野の一地方では信濃太郎>とも呼ばれているとある。

<毛虫3>カレハガの幼虫、サクランボの樹の幹にしっかりしがみ付いている。一見何処にいるのか分からない。体の周りの体毛が長く、縁がはっきりしない見事さである。

 推測だが当て字をすれば放生虫(ホウジョウムシ)、住房(ジュウボウ)あたりに由来しているのではなかろうか、と考えてみたりする。
 こうして見てみると芋虫毛虫は、想像以上に毛嫌いされていて実に可哀想である。あのファンタスチックな美しさを得るための、相応な代償とでも言うのであろうか。

 それにしても芋虫毛虫が完全変態(卵―幼虫―蛹―成虫)の一過程であることを思い返す時、「一体全体これは何なのだろうか?・・・」と考え込んでしまう。完全変態の有り様、変身の不可思議さ、変化の必要性、多様性のメカニズム、結局何が何だか、さっぱり分からない。

 大自然に観るからくりの不思議さこの上ない。改めてその神秘性を思い知らされるばかりである。


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