ASIA紀行

 ルート

一日目:大阪→バンコク(タイ) 二日目:バンコク→アランヤプラテート 三日目:アランヤ(タイ)→シェムリアプ(カンボジア)(国境越え) 四、五、六日目:シェムリアプ滞在 

七日目:シェムリアプ→プノンペン→シアヌークビル 八日目:シアヌークビル(カンボジア)→トラ−ト(タイ) 九日目:トラート→バンコク 十日目:→大阪 

 


↓好きなだけ書いた後、読み返して見ると、ものすごく読みにくかったです。(感想)

一日目

  はじめての海外一人旅。不安と楽しみを乗せて、難波駅から、大好きな南海ラピートに乗っていざ関空へ。「Excuse,me. Do you have a ticket 15 ? 」 朝早かったので車内で売店

で買ったサンドイッチを食べようとしたそのときだった。「え、まだ日本なのにイキナリエイゴ?」とイキナリ不意をくらって席を見てみると、ひとつ後ろの席に座っていた。

「Oh、ソーリー」とだけ、言って席を離れた。もう、これだけで心臓ドキドキ。こんな英語で面食らう私なのにと思い、この先がものすごく不安に感じた。こんなんでやっていけるのだろう

か。そうして、関空に着くと、春休みとあってけっこう人も多い。旅行社の列からチケットを取って、さっそく搭乗口へ。関空も大好きで、キレイで、なんか近未来を感じさせる雰囲気がイ

イ。乗ったのは、タイ経由のシンガポール航空、10時位発、到着昼の2、3時予定だった。一人旅は、他にもたくさんいるだろうなと思っていたら、ぜんぜんいなかった。みんな、友達と

か2人組でのたのしい卒業旅行。うちは、一人という、厳しさと楽しさを含んだ孤独とロマンの「旅」。「みんなとは気持ちが違うんだ」目の奥に強い輝きを見せながら飛行機の中へ。さら

に、わたくし、関空も然る事ながら、飛行機も大好き。特に離陸のときとか、エアポケットに入って落ちたときとかワクワクする。そのため、もちろんジェットコースターも好き。飛行機は安

全感がない分スリルがあってすごいたのしい。乗ったシンガポール航空はテレビゲームがついていて、しばらく、変なヘビー級ボクシングで、ボタンを連打していた。お昼も食べて、隣

に座った2人組の卒業旅行らしき人に、入国カードの書き方について聞かれた。一人でタイに行ってるので、ベテランだと思われたのだろう。「すいません、解りません」、3人で一緒に

「職業欄は学生やったらstudentでええんかなぁ」と悩みながら記入した。機内も飽きて、しばらくしてやっと、タイのドムトアン空港に到着。入国審査を過ぎて、まず、空港の中がわから

なかった。地図がない。どこに駅への道があって、どこに旅行社のオフィスがあるとかである。因みに今日、一日目の目標は、「帰りのチケットのリコンファームすることと」その後、「予

約していたバンコクセンターホテルに電車で行くこと」だったので、空港内をうろうろし、シンガポール航空のオフィスを三十分かけて探し。とにかく、はじめての所は怖く、日本でタイ人

に会っても、「あっ!」ってちょっと思うのに、殊にここは、タイ人やヨーロッパの人ばっかり。ものすごく心細く、不安になった。ようやく、二階に小さなオフィスを見つけて、リコンファーム

を終了。リコンファームとはちなみに、チケットの予約再確認のこと、reconfirmね。自力でリコンファームを終了した事で自信がついたのも束の間、railway stationがなかなか、見つか

らずまたもや1時間くらい、うろうろした。いろいろ迷って、尋ねたりして、やっとこさ、解り難い所にあった駅へのルートを見つけた。空港からそのルートを通ると野外のホームらしきとこ

ろに着き、チケット売り場があったので、チケットを購入。周りに日本人がいたので、聞くと、とりあえず10バーツと言ったらいいよ、と言うので「テンバーツ」言うとチケットがもらえた。ち

なみに表示はタイ語だった。後で、気づくことだが、三等席なら5バーツでよかった。ちなみに一般観光客はほとんど鉄道は使わない。なぜなら、ぼろい。観光客が乗れるような電車じ

ゃない。旅をする人や、一般のタイ市民が乗るような電車だ。さらに、この電車は、ホテルの多い街には行かない。でも予約したホテルは、バンコク中央駅近くにあったので乗った。ナ

により安い。旅行客はタクシーかリムジンバスが便利。でも、一人旅とか、友達との旅行だと、鉄道が楽しいかも。人も少ないし。もちろん、日本とは違って、鉄道のドアは開いたまま

走り、着いたら、勝手に乗って降りる。乗って暫くすると、タイの車掌が「カッチャ、カッチャ」と言わせながら、チケットを切りに巡回に来る。駅毎に「カッチャ、カッチャ」来るので、そのリズ

ムがおもしろかった。私も中に入ったが、席はいっぱいだったので、開いたままのドア近くに立っていた。そこから、その風景を見たが、タイ、特に鉄道沿いは汚い。日本の大和川と比

にならないくらい、汚い、ドス黒い。汚いプレハブの家が立ち並び、時々、外からとてつもない異臭が立ち込める。タイの中心街は、スカイトレインという綺麗な電車が走ってるんだけど、

乗ってる電車は、かなり古いやつで、下町スラムっぽいところを走る。でも、旅情を楽しむなら、この電車が絶対イイ。バンコク中央駅に着くと、いきなり英語のへんな勧誘にあったが、

それを降りきって、迷いながらホテルに到着した。  

 


 二日目  バンコク→アランヤプテラート

 

 昨日は初日とあって、ちょっと疲れもあったが、二日目はいきなり早朝5時起きだった。なぜなら、アランヤ行きの電車が朝の5時55分発だったからである。用意を済ませて、チェック

アウトのためにロビーに行くと、早すぎて人はほとんどいなかった。薄暗いロビーから現れたタイ人ホテルマンに「なんだ、もうチェックアウトするのか」と言われ、そうだと言うと急いで

手続きをしてくれた。さらに「どこに行くんだ」「何時の電車だ」と聞かれたので、そのことを伝えると、さらに急いでくれた。それが済むと、旅人はまだ夜も明けきらぬタイの街を一人後

にするのであった。タイの夜明け前、バンコク中央駅に着くと朝早いというのに、大勢の人で賑わっていた。バンコク中央駅はタイの中心であるバンコクから、地方へ行くための玄関口

のターミナル駅。私は終点アランヤ行きのチケットを、35バーツ(日本円で90円)購入すると乗り場に行った。長い編成の電車の窓から、タイ人や欧州人の顔が見える。適当

に車内に乗り込むと空いてる席に座った。駅には英語表示があるので、言うほど心配はない。タイの人も皆やさしく教えてくれる。しばらくして、夜明けとともに、古びたディーゼル電

車は街中を走りだし、バンコク駅を後にする。私は少し湿った風をうけながら、これから行くカンボジアの国境の怖さと旅の不安を感じながらも、旅の景色を満喫していた。途中、人が乗

ったり降りたり、タイ語アナウンスが流れるがさっぱりわからない。車掌が「カッチャ、カッチャ」させて来てチケットを確認しに来たが、それ以後は私を見ても、チケットを確認することはな

かった。この日本人のことをずっと覚えているのだ。さらに、地元の人からは外人を見る目で見られ「日本人かなぁ。あの人はどこから来て、何をしに行くのだろうって」って感じでチラ

っチラっと見られ、注目を受けた。途中隣に座った親子の子供はたれぱんだのグッズを持っていたし、昨日のホテルのテレビでは、キャプテン翼やTVチャンピオンがタイ語で流れてい

た。日本の文化には親しいと思う。私が、カバンから何か取りだそうとしたら、「この日本人はいったいどんなものを出してくれるのか」くらいの目線を感じたが、カバンには驚かすような

物はなく、ファイルを取り出しただけだったが、百均のファイルでもちょっと注目を浴びたのがおもしろかった。日本でも田舎があるように、カンボジア国境のタイの田舎へ走る電車は、田

舎地味たおっさんやおばさんが乗っていて、隣の親子は身なりがキレイだったが、途中汚い乞食2人が乗って来たりして、突然車内で新聞を敷いて寝たりした。車掌が来て、

何か言い合うと、びくびくして車掌の強い態度に乞食風は「ごめんなさい。ごめんなさい」口調で謝ってた。近くだったので臭かった。さらに国境駅に近づくと、一斉にカンボジア系の人

間はパスポートらしきものを全員チェックされた。タイの車掌は警察並みの服装しているので、頼りになる。また電車はひたすら原野を走る。途中何度も売り子が行ったり来たりしたの

で、止めて、変なフルーツを買ってみた。見た目バナナのようだが皮はなく、柿のような、梨のような、なんとも言い難い味に戸惑い後で食べることにした。ひたすら電車に乗ったのでお

尻が痛かった。車窓はどこもほとんど同じで、熱帯の雑林と痩せた土地がずっと続いた。車窓が好きなのでタイの見たことのない景色をぼーと見るだけで、すごく楽しめた。しばらくす

ると、突然、雨が振り出す。クーラーがないため、窓全開で走っていた車内は活気づき、私もどうやって閉めるんだと戸惑っていたら、周りの人が次々と窓を閉めていってくれた。日本

が失った鉄道の旅情がそこにはある。11時30分、およそ5時間乗り続けた電車はアランヤプラテートに着いた。着いて降りようとすると、いきなり人が乗り込んできて、西洋人は連れ

去られて行った。バイクタクシーの勧誘だった。その時、私の前を過ぎた勧誘が「あれはジャポネだ」と言ったのが聞こえたが、彼を無視して降りていった。それでも、私もバイタクでアラ

ンヤホテルに行く予定だったので、降りてすぐに勧誘に捕まった。「国境へ行くのか」と言われ、ホテルに行きたいと告げた。今国境を越えると、カンボジアのシェムリアプに着くのは夜

中になる。カンボジアでの夜の安全はまったく保障されない。なので、ここで一泊して、早朝に発つことにした。昼に着いたので、アランヤの街を一日散策した。街をあるいても外人は

私以外いてなくて、またもや外人として街で、そういう目で見られることになった。

なぞのフルーツ、見た目はバナナだが全然違う。

 

 


三日目 アランヤプラテート→シェムリアプ

 二日目にアランヤの街を散策に出かけて帰ってきたとき、ホテルのロビーでホテルのおっさんに「国境を越えてシェムリアプに行くのか」と言われ、そのつもりだという旨を告げるとホ

テルで、シェムリアプまでのツアーをやっているという。ここは国境の街、国境を越えようとする人が集まっているのでそういうツアーも生まれるのだ。本当は、直接行ってピックアップト

ラックと交渉して行く事にしていたが、これの方が楽かなと思い頼むことにした。とにかく、この国境越えは問題が多発していて特に金銭面だが、トラブルが多く報告されている。地球

の歩き方の本でも、ここでの国境越えはやめるほうがいいと書いてある。特に一人は、絶対に。しかしそれも楽しみにしていた。このツアーは、まだ、何人かで集まって行くので、安心

かもしれないし、もしかしたらそこに日本人もいるかもしれないと思い頼んだ。少し、寂しくて日本人に飢えていた。朝8時、早めに起きて、部屋を出てロビーに行くとごついヨーロッパ人

バックパッカーがゴロリと集まっている。心がちじこまってしまった。それでも、負けじと一人待っていたら、しばらくして、何台かトゥクトゥク(三輪バイク)が来て、欧州人が2人ずつ乗り

こんでいき、私も言われるがまま乗り込んだ。2人乗りの席の隣に座った南米人が笑った。彼の名はカルロス。彼は、日本の大学で母国語の教師をしていて、休みを利用して来たの

だと言う。彼も一人旅だ。いろいろ話をしながら、バイタクは国境に着いた。バイタクへの風がなかなか気持ちがいい。混沌とした国境は多くのカンボジア人でごった返し、一人でここで

歩いていたら、西洋人であろうと私であろうと恐怖を感じる。降りると女の子が日傘をさしてきたが、すぐに断った。いろいろ声をかけられ、お金目当てでじろじろ見られてくる。私は多国

籍国軍ツアーの日本代表として彼らと一緒にイミグレーションでビザ取得しと入国を果たした。よく、テレビで国境をみんなでジャンプして越えるシーンがあるけど、そんな事ができる平

和な国境じゃなかった。まず、ビザ代をぼってくるという話だったが、お金くれよっていうしぐさをしたが「何言ってんだ」と強い態度で断った。ノーと言える日本人、ここにあり。大抵の日

本人は考えが甘い。特にお金に関して、物価の違いからか、お金を出してしまう。カンボジア人は日本人に対して、お金持ちなんだから、お金くれっていう感じになる。さらに、日本人

も、日本の物価と比較してしまうと、まあいいかぁと出してしまう。そこで別の日本人の若者の団体を見たが、なんとも勢いがない。何?何?どこ?どこ?とグループの中で質問ばか

り。なんとも頼りない。頼るもののいない私といえば、カルロスらと一緒に、自ら勝手にどんどん進んでいった。日本人は兎角、日本人グループによる行動が多く、また彼らのような人が

ぼったくりの対象でもあるらしい。国境を越えると、私達多国籍グループは、ちいさなトラックに押し込まれ、混沌とした国境をすこし進んで離れた。道は砂利道。砂埃が舞う。まるで護

送中のようだ。詰め込まれた外人は、ひどい環境だと嘆き笑う。それが旅だ。どこかの店に着き、ここで休むように言われた。しばらく休んでいると、西洋人の男女はギターを弾いて歌

を歌い出した。私はちょっと惹いた。基本的に西洋のノリにはついていけない。それでも拍手すると、「まだまだだよ」って顔をした。しばらくして、ピックアップトラックが来て「100バーツ

払えば、室内に乗れる」と言う。私とカルロスは、此れからの長旅なので、迷ったあげく、室内にすることにした。すると、イギリスファッキンが室内を希望し、室内に後ろ4人押し込まれ

ることになった。これに切れたのが、カルロスとイギリス人「100バーツ払ってこの席はないだろう」と言うことだった。これから5時間この席で押し込まれっぱなしでさらに、相当の悪路

なのだ。私はこの事態を把握していたので、仕方がないと思っていたが、とにかくカルロスは金を返せの一点ばり、イギリス人も「ファッキン」の連打。カンボジア人は手にしたお金は絶

対に返さない。これは、これから私の経験する教訓でもあり、これからの日常の序章でもあった。これがカンボジアなのだ。私はそのとき圧倒され、下手な英語を使うことができなかっ

た。ここから、次第に私の勢いがなくなってしまい、この反省がこの旅先の教訓になった。とにかく多国籍グループのピックアップトラックでは西洋人は陽気だ。その国わけは、イギリス

人、ビールっ子ドイツ人、ロシア人、スペイン人、親父のポーランド人、コロンビア人、そして私ジャパニーズ。ワールドカップの西洋人を見て解るように、みな海外旅行の彼らはあんな状

態がつづく。途中、お昼休憩でも、カンボジア人から異様な視線で見られても、彼らは積極的に行動する、そんな視線おかまいなしだ。まあ、彼らのほとんどが一人旅ではないという強

みもあったかもしれないが、よく動き、よく飲む。強気だ。私はテーブルでご飯を食べていると一人の若いカンボジア男が来て、名刺を差し出した。ここの、ゲストハウスでモトバイのドラ

イバーをしているので、ぜひ来てほしいのと滞在中の観光の足になりたいそうだ。日本語の手紙を出してきて怪しかったので、まあ、考えとくとあいまいな返事をした。それから、数時

間に渡る地獄の悪路は続いた。夕刻、トラックは、とあるゲストハウスに着いた。私は他を探すのも面倒で一泊3ドルだったので、ここで落ち着くことにした。     つづく     

  これは シェムリアプの道だが、道が突然へこんでいる悪路。

 

4日目 シェムリアプ滞在

 朝の5時か、6時だっただろうか。朝早かったのは覚えている。私はすでに起きていて、リュックにお金やガイドブックを入れて、今日の行動計画をしていたとき、ノックの音がした。

そういえば、昨日途中のレストランで出会った、モトバイ(モーターバイク)のドライバーに、このゲストハウスに着いたとき、明日アンコールワットの朝日が見たいか、と聞かれたので、

見たいと伝えていたのだ。「それじゃぁ、朝に行くから」ということだった。私はカバンを持って、モトバイの後ろに乗って夜明けのカンボジアに飛び出した。「ブブカ、ブブカ」と以外に乗り

心地は良い。周りに私と同じように、朝日を見に行くモトバイがいっぱい走っている。日本人も、欧州人も多い。そして、ある遺跡に着いて、観光客から離れたところで、池から上る朝日

を見た。朝はやっぱり気持ちが良い。これが、カンボジアだなぁと思ってたら、「おにいさん、おにいさん」振り向くと小さな女の子が日本語で話しかけてきた。人懐っこい笑顔だ。「コーヒ

ーいる?」と聞かれたので、いくらと聞くと、すかさず「ワンダラー(1$)」と言う、ふざけるなと思ったが、バーツしかなかったのでバーツしかないと言うと、バーツでもいいと言う。20

(60円)バーツ持っていたので、バーツで買った(これでも高いくらい)コーヒーを飲みながら、日の出を見た。きれいだった。と思うのも束の間、「おにいさん、おにいさん」子供がよって

来た。「これ、ワンダラー、二つでトゥーダラー」と手作り腕輪を見せてきた。高いのか、安いのかも、わからなかったが、ここでは、1ドルでも高価と言うことを聞いていたので、値切っ

た。なかなか、てこづったが。十個買って、20バーツ払った。ここでは、正規の値段などない。日本人なら1ドルでも買うからだ。まず、吹っかけてくることを、強く持っておかないと苦労

するのだ。私も、この人に甘くて、曖昧で優柔不断な性格がこれからも損を出した。そして、朝日が登ると、彼女達は自転車で家へ帰っていった。彼女達は、朝の稼ぎにここに来ている

のだ。そして、日も昇ったので、どこへ行く?という話になった。カンボジアの西に位置するシェムリアプは、アンコールワット遺跡群を有する観光街、多くがインフラの届いていないカン

ボジアでも、整った町で観光客目当ての高級ホテルから、私のような人が泊まる安宿まで揃っている。私は、一日目は少し遠出をして遺跡を見ようと決めていたので、聞いてみるとそ

こへ行くなら、確か40ドルだといった。そこは、遠くてさらに、ガイドなしでは危険とされているところだったのでやっぱり断った。そのかわりに少し遠めの別の遺跡に行った。遠めの遺跡

なので、観光とは関係ない街を通る。だから街に入るたびに、子供に手を振られる。さらに、子供が学校に行く時間帯なので、たくさん通学している。そこには、カンボジアの日常の

生活が息づいていた。なんら日本と変わらない。私のような外人が通るたびに、「パイパーイ」と手を振ってくる。なんて、人懐っこい人たちなんだろうと思った。私も手を振り返す、

さわやかな朝だ。アスファルトの舗装がされていない砂道を砂埃を、巻き上げ、街から街へと進み、ひとけのない道路も進んでいく。この道は大丈夫なのかと心配していたが、

日の出を見た朝一ということもあり、観光客もまばらなため、人がすくなかったのだ。そして、1時間ほどして、まず山の中にある遺跡を見に行った。小さな川の中から、きれいな

彫刻が浮かび上がる自然の中にある遺跡だった。私は、この遺跡を探訪し、大満足して次の遺跡に向かった。

    

 

次の遺跡は、少し戻ったところにある遺跡。結構観光客も多く人気だ。入ろうとすると、子供がよってきて、絵葉書やお土産物を売ってくる。今回は無視した。一見、小さな博覧会の

一角のような遺跡に入ると、結構な人がいる。その中で、日本人カメラ青年がいたので声を掛けてみた。彼は、ミニバスで国境を越え、同じルートをミニバスで帰ると言う。そして、

この遺跡へは、モトバイで来たと言う。値段を聞くと私のよりも結構安かったりする。私はその遺跡をしっかり堪能したが、その片隅にあった怒りと暑さを持って遺跡から出てきた。

遺跡の中であった人は、○ドルで来たっていうのに、俺の○ドルは高いだろうと言って値切った。でも、実際日本人の彼は、初めの遺跡には行ってなかったが両者とも一日借り

きって、その値段なので、どうみてもちょっとそっちのほうが安かったのだ。「おばさん、ココひとつ」 「1000リエルだよ」 「じゃあ、1ドルでおつりちょうだい」 リエルとドルのレート

は曖昧で、いつもお釣りは違う。私は、ココナッツの実を飲みながら、座って交渉を開始した。もし、同意しないのならば、明日からあなたはいらない、他のモトバイに頼むと言った。

交渉した末、私がどうしても行きたかったちょっと危険なかなり遠い遺跡を行くことにして、それを含めた値段で、5ドルを値切ることで同意した。まあ、一人に対し一人のガイドなの

で格高だった。後で聞いた話、団体で車で行くと一人6ドルくらいで行けたらしい。でも一人旅で、他の遺跡も行ったので、その6倍を払った。そうして、私はわくわくしながら行った。

本当に、人里離れた遺跡だ。いくつもの街や村を通りすぎ、数時間掛けて着いた村に、遺跡があり、人影がほとんどなかった。さらに、何か危険な匂いのするところだった。ガイドブ

ックには、信頼できるガイドなしでは、行ってはいけない所と称されていた。所々、誰かに許可をもらいながら、やっとこさ着いた。モトバイの運転手は「俺はガイドのライセンスを持

ってるからこれたんだ」とライセンスを誇らしげに首に掛けていた。着くと、静かな怖いところ、怖いおじさん達が入り口らしき所で座っている。こういう時、一人は怖い。ガイドがおじ

さんの所へ行って戻ってくると、通行料1ドル払えということだった。基本的に遺跡はそういうのはないが、ここは本にも書いてる通り、特別らしい。なけなしの1ドル払うと、難なく

通れた。向こうも、主な観光収入だ。襲ったりはしない。この遺跡は、私の予想した通り、NO1の遺跡で「聖剣伝説」に出てくるような遺跡だった。写真は面倒だから載せないが、

その遺跡は、人も少なく自由に周れることができ、じっくりと壊れた遺跡の瓦礫や中を探検した。来てよかったと思った。十分に満喫すると、また土ぼこりを舞い上げ、同じ道を帰

った。途中食事休憩を取ったが、完全にその町は観光客がいなく、ご飯を食べながら、その一部になって本当のカンボジアの日常を見た気がした。夕日が辺りを包む頃帰り一つ

の小さな遺跡に寄った。子供がこれ買ってくれといつものように寄ってくる。疲れていた私だったが、なんかカンボジアっぽいハンカチだったので、「それ、カンボジアシルク?」と

聞くと、少女は、はにかんでそうだと応える。明らかに嘘なのだが、なぜだかそれに気づかなかった。それほど、精神的にも疲れていたのかもしれない。お土産にイイかなと思い

ポケットにあったあり金2ドルで購入。向こうは、にんまり顔。相次いで他の物売りもやって来る。もうお金がないのでどうしようもなかった。その後ゲストハウスに帰って、シャワー

を浴びて、ベットを見てみると、そこには明らかに汚い布が見えた。確かに模様もアジアンテイスト、でも決してシルクではなかったし、ぼろくて、汚くて、家に飾るのも嫌だと思った。

2ドルという値段は、まさにぼったくりの範囲を越え、日本人のいいカモぶりを露呈してしまった。そういえば、あのとき、物売りは何か喋りながら、物凄い笑顔と大声を出して母親の

元に帰っていった。きっと、「あの日本人2ドルで買ってくれたー」「まあ、でかしたわ」くらい言ってたのだろう。そのベットの上のハンカチはそのまま、ごみ箱の中に入った。

 

5日目

 天気は、晴れ。今日はゆっくりと寝た。8時くらいだったろうか。用意ができて玄関に出てみると、モトバイのガイドがトランプで賭博をしていた。「あいつ俺の金をあんな風に使いや

がって」と言いたかったが、もう私のお金ではないので何も言えなかった。「昨日のお金を返すよ」昨日お釣りがないから、今日返すと伝えていたお釣りを返してくれた。勝ったの

だろうか。とにかくお金が返ってきて嬉しかった。今日からはメジャーな観光名所巡り。とその前に朝ご飯で食べたかった麺料理があったので、モトバイに尋ねた。それなら、どこ

でも、食べられるよと言うので、連れていってもらった。オープンなお店で入ると、早速メニューが出てきた。見てびっくり、わかりやすいドル表示。というより、料理が最低1ドルから

だった。「ほんまかい。他の席のカンボジア人はこの値段で食べてるんかい、そんな金持ちばっかかよ」と思うぐらい高かったが、これが、観光客相手に出す裏メニューというやつ

だと思い、そのまま1ドルで注文した。モトバイは、目をあまり合わせようとせず、日本人なんだから仕方ないじゃん。といった風だった。味は、いまいちだった。すぐにアンコールワ

ットへと向かった。モトバイは、昼まで遺跡の外で待ってるから、と言うことなので、一人で勝手に行った。現在は朝九時くらい、昼まで可也時間があるので、ゆっくり堪能しよう

と思った。一人、橋を渡ってアンコールワットの寺院の中に入っていった。隈なく周った。大きいし、見がいがある。ゆっくりゆっくり周った。ところ、どころで、仏様がいる。その前に

絶対おばあさんがいて、線香をくれる。そのとき、少しお金を寄付する。いくらでもいいし、しなくてもいいと思う。小心者の私はした。というより、寄付したくなかったら、線香は

つけなければいい。薄暗い寺院の通路を周ると一人の坊主に出会った。「ハロー」と言ったのでハローと返した。そしてそのまま、過ぎていった。たまに勝手に案内をして、

金を取るようなやつもいるので無視に限る。途中で、その坊主はタバコを吸っていた。あの坊主め。等と思いながら、またくるくると通路を周る。また、出会う。なので世間話を

した。話は私が日本人かとか、今英語を勉強しているので、話してほしいとかだが、それなら、私ほど不適当な人物はいないので、止めたほうがいいと伝えた。それでも彼は

そのまま、仏像を案内してくれた。仏像に首がないのは、敵に持って行かれたからだとか。そして、そのまま少し離れた寺院があり、あそこが坊主の寺だと教えてもらった。彼は

途中の道で、変なちいさな実を取ってくれて、食べたが渋かった。途中では汚いおっさんが、落ちた実を拾っていたので、「何を拾っている」と坊主に聞くと、わからないが、あの人

達の拾ってるのは、一般で食べるようなものではないと言うので、彼らの身なりを理解した。途中、彼らの前でその作業をじっと見てみると、彼らは私を敬うように、笑って実を拾って

見せた。まるで、「これ拾ってたんです、お役人、えへへ」と言った感じで、目上の人に対する気を使う態度だったのでに、私はショックを受けた。私はただのガキで、そんな態度を

取られるような人間ではないはず。経済の温度差、南北問題が頭をよぎる。その後、頼み事があるから、寺に来て欲しいと言った。そこで坊主は「実は先月日本人の女の子が来

て、仲良くなって、帰ったら手紙を送るように言ってくれたのだけど、まだ来ない。是非、こっちから手紙を送りたいのであなたに日本で送って欲しい」と言った。「成る程、そういう訳です

かぁ。このエロ坊主め」と心の中で思わしていただきました。それでも、私は快く頼みを承諾した。その後昼ご飯をご馳走になった。なかなかアジアンな家庭料理だった。確かに寺は男

ばかり、彼の年齢になると恋もするだろうと思った。「必ず、お送り致します」とお礼を言い。お世話になった坊主の寺を出た。アンコールワットの入り口まで戻るとたくさんのモトバイが

並んでいる。あの、モトバイのガイドがいないなぁ。探すの面倒やから、違うモトバイにしようかな。と思うと現れた。「どうだった?」「おもしろかった」「途中坊主に会って、寺でご飯をご

ちそうになった」私の片言の英語によく飲み込めない様だった。カンボジアは、風がここちよい。森の香り、鳥の声、日光を一杯に受けた風が、さわやかに注ぎ込む。冷たいアスファルト

ジャングルなど微塵も感じさせない。

 

 

 

次回はとりあえず未定です。     BACK