スープの冷めない距離とは

 戦後の民主主義が定着し、家族制度が変化してゆく過程で、「親子はスープの冷めない距離に住むのが良い」と言われた時期がある。
 家父長的で封建的な日本の家族制度では、常に弱い立場の嫁が虐げられ、自由が無かった。その親子関係を、必要なときには支えたり相談に乗ることができ、普段はお互いに干渉なしに生活できる、位置関係をこの言葉で表した。味噌汁ではなく欧米からもたらされたスープなのだ。
 戦前の親孝行が強調された感覚に対して、新鮮な人間関係のあり方だと思った。もう今では核家族化のみか、家族そろっての食事さえママならないファーストフードの時代に、この言葉は死語になっている。
 
 実は家ではスープが、とても美味しく新鮮に食卓に並ぶ。朝は味噌汁だが昼はスープがあると、雰囲気が変わる。それに歯も悪くなってきたので、噛まなくてもより多くの野菜などが摂れる。
 それで分かったことは、スープは一度冷ましてしまうと、相当味が変わってしまうものがある。。コーンスープなどはそれほどでもないが、ジャガイモなどは別物のようになる。
 我が家では野菜スープが主なので、鶏がらなどを煮込んだものより風味が変わりやすいのかもしれない。それにしても出来立ての野菜スープがあるだけで、食事がとても引き立つ。

 ただスープを食材を求めて作ろうとすると大変な手間が要るだろうが、畑で無駄になりそうな半端な野菜で、けっこう美味しいスープが飲める。私は野菜のスープはカリュウムが補給できて、健康にいいと思っているので、余計にうまく感じる。
 さらに農薬も化学肥料も使っていないので、ずいぶん煮込んでも安心だ。トウガンもキャベツもタマネギも直接食べているよりは,舌にやさしい感覚で触れる。

 一年を経過してみるとそのときそのときの畑の収穫物が、噛んで食べるよりは大量に食べたように思う。日本古来の味噌汁にしてもうしお汁にしてもとろろ汁にしても、西洋人にはスープに違いない。彼らは味噌汁を味噌スープとして一番先に飲んでしまう。
 次々に皿を交換してゆく洋食に対して、お膳に乗っている日本料理は、漬物などと同じように主食を引き立てる、取り合わせの面白さもある。

 美味しさを並べてたてておいて、味わっていただけないのは申し訳ないが、ぜひ自給畑の個性的な野菜スープをお勧めする。新しい発見があることだろう。
 予想外に大人の味だと思ったのが、ゆり根のスープだ。ほんのりとした苦味が、呑み込んでしまったらすっと消えてしまう。細やかなゆり根の舌触りにこのほろ苦さが、新鮮だった。
 また惜しげなく採れるねぎも、いいスープが採れる。凍りつく冬の路地でも、凍らないように細胞液に栄養を貯えているのだろう。中国料理にも、いろいろなスープが付くが、植物の命を頂いているような旨味を感じる。命がこもった薬膳なのだ。
 予想以上に良くできたスープを程よい距離で届けられれば、楽しい話題になるだろうと思う。