育ってきたエンドウ

 ほとんど鳥に食べられていたエンドウが、今になって育ってきた。さやえんどうなので、若い莢を食べると、ほんのりと甘い。
 昔の人にエンドウの蒔き方を教えてもらったら、「豆が肥えになるほどまけ」といわれた。なるほどひと握りづつ蒔いておけば、少々鳥に食べられてもかまわないというわけだろう。

 ただ昔は種はすべて自給していたから、グリーンピースとして食べられなかったものは全部保存していて、必要なときに食べていた。莢ごと食べるのは、皺があって黒くて蜜豆に入っているような豆であり、グリーピースとして食べるのは白くて円く張りがあった。
 大豆より食べるのに手間がかかるが、それなりの味があった。今はグリーンピースは採って冷凍していつでもグリーンで食べられる。
 
 エンドウで思い出すのは、実の中にエンドウゾウムシがほとんど食べて、一匹だけ蛹になっている。これはたくさん一粒に卵が産みつけられても、最初に中心に達した虫以外は死んでしまうのだそうだ。
そして胚芽の部分だけは残っていて、蒔かれると弱いながらも芽が出てくる。
 虫もエンドウも生きてゆくための永い間のルールだろう。
 メンデルの遺伝の法則もエンドウから習った。ツタンカーメンのエンドウの話もあった。きっとエンドウは早くから人類に用いられてきたものに違いない。なんだか弱弱しいが、自家採種して一握りづつ蒔けるほどの収穫があるのだろうか。そして遺伝的にも、同じものが出るのだろうか。
 エンドウに限らず、種も野菜も自給していたころが、思い出される。私の自耕園は、そんな郷愁の場になるのだろうか。苗や種を自給するのは昔は当たり前だったのに、今は買うのが当たり前になって、さらに作りにくくなってしまった。