昆虫学教室の同窓会
 2年ごとに開くことになっているのだとかで、昆虫学教室の同窓会が神戸大学農学部の滝川記念館で行われた。今回は桃井先生の追悼もかねての集まりで、感慨深かった。
 六甲山中腹から大阪湾を見ると、関西空港も見える。30年くらい昔は尼崎や泉北の煙にかすんで、正月くらいしか和歌山まで見えるときはなかった。公害防止が進んだと言ったら、関西の不景気のせいだと笑われた。
 ここに農学部が移ったときから、農村の自然環境での生態研究は、もう無理だと思ったものだ。ただ当時と違って、交通手段も経済力も変わり、若手の発表は臨場感のある映像も加えて、広く世界的な広がりを持ってきたのも確かだ。
 私が教室にいた頃、一番若かった桃井先生が亡くなってしまって、2年後輩に当たる内藤教授がもう還暦を迎えているのだから、大きく時代は変わったわけだ。
 丹波篠山の小さな町で密度の高い青年期を過ごしたのだから、語りだせば限りがないほど思い出はある。これらは機関誌に書いておいたのだが、それにしても小さな研究室の繋がりがこうして続いていることに、関係者に感謝したい。何しろ私の学年で専攻は私一人だったし、ほっておくと集まる機会も無くなってしまう。
 ほかの研究室の皆さんにうらやましがられるのだが、折々に集まっているので、懐かしい皆さんと出会う場が楽しめる。それに反して県庁などを中心にクラスの仲間も多いのに、一向に集まるチャンスが作れない。
 今後大学が独立法人として自前で活動するようになると、このような繋がりは貴重になってゆくだろう。桃井先生の遺稿も整理して出版され、改めてその人となりに感じるところがあった。

昆虫学教室の機関誌と桃井先生の遺作集
 懇親会のときに私より若い皆さんと話していたら、「福井さんは社会運動一本だと思っていた」と言う認識だった。しかしここに入学した私は、昆虫一筋に生きると自他共に思っていたのだ。だから著名な岩田先生のところに行ったのだし、入学した頃は真剣に考えていた。
 それが安保闘争のリーダー的な存在になって、桃井先生の教室に行っても、今にして思えば毛色が合わないと思われ、厄介者だったのかもしれない。ここらのいきさつはこの機関誌に書いてあるのだが、それならさらに弁明して置かねばならない。
 右の記事は中学三年のときだが、すでに北海道から当時アメリカの占領下にあった沖縄まで、愛好者を組織し、昆虫の機関誌を発行して、周囲からも虫博士として認められていた。進駐軍の衛生害虫駆除の資材援助や研究指導も受けて、ブユの研究や駆除にそれなりの業績も残した。
 この記事にもあるが、当時の中学の校長先生も生物に熱心で、高校の生物の先生に引き合わせ、申し送りをしてくれた。生物の教師はさらに岩田先生につないでくれた。だから岩田先生のほうから入学後私を呼び出し、励ましてもらった。
 ここまで考えてくると、岩田先生は私の幼い頃の話も知っていて、私を見守ってくれていたような気がする。但馬と丹波の距離は近いし、人間関係も当時は濃密だった。

この新聞の切り抜きは当時叔父が母に送ったものらしく、母のアルバムに残っていた。今と違って読んだ人達から、さらに虫好きの仲間が広がった。
 結局はこれほど真剣に昆虫が好きで研究室に入り、5人もの先生に恵まれていながら、昆虫学教室では昆虫を学ばなかったのと同じだ。
 もちろんずっと虫に関心を持ち続けてきたし、場違いなところで昆虫の知識が生きたことも多いが、それは学問としてではなく愛好者の趣味的知識だろう。この方が身近な虫を広く興味を持って調べることになる。
 何しろ子供の頃は虫まみれの生活だった。万年床の周りをどう見ても南京虫と思われる虫がぞろぞろ這い回っている。戦争から帰ってきた叔父など、ずいぶん悩まされたらしく、家中血を吸われるのではないかと心配した。
 今にして思えば、苗代に得体の知れない卵塊があったので、もって帰って忘れていたのだ。どうもそれがタガメの卵だったので、孵化したのらしい。田植えシーズンは学校も休みになり、朝から手伝わされた時代だ。
 タガメは絶滅危惧種になっているらしいが、当時はどこにでもいて「チン○切り」と子供たちは恐れていた。きっとあの卵塊の下には親がいて、常に水をかけて守っていたのだろう。なぜか機関誌の「なべぶたむし」とは南京虫のことらしい。

今年は家の庭にせみが多い。クマゼミもアブラゼミもツクツクホウシもいるが、一緒に鳴く事はない。
 風呂の火の番をしながら、月の光を頼りに裏の桑畑を探して、這い出してきたセミの偽蛹を手当たりしだい捕まえた。それを蚊帳の中に放り込んでおくと、翌朝目覚めたときにはみんなきれいに羽の伸びた、さまざまな種類のセミになっていた。
 蚕が終令になると、雨が降るように桑を食う蚕棚の下で寝ることになる。その蚕に養蚕指導員から寄生ハエがいることを知り、何匹か見つけ出してウジを確かめた。ハエの種類の多さと、その生活圏の多様さに感心したものだ。
 中学の帰り道は、使われなくなった馬車道を本を読みながら歩いた。目の前に虹色のハンミョウが豆を蒔いたほど飛び交う。ミチオシエと言うように、投網を打ったように歩く少し前を飛んでゆく。読む本の世界とともに幻想的な秋の姿だが、もはや舗装された道ではハンミョウは住めない。
 岩田先生も当時の講義で自然環境の大切さを説かれたが、「沈黙の春」や「複合汚染」の警鐘は、昆虫を学ぶものには当然わかっていた。
 この自耕園の精神もそれを守ってきたつもりだが、明らかに生息する生物の数は減り続けていると思う。

オケラ
最近あまり見なかったが、積んである牛糞の中から出てきた。幼い頃いつも仕事をしているおじいさんたちについて野良にいたが、そんな時両手を合わせた囲みの中に、この虫を入れてくれた。必死で前足で指の隙間などを押し広げようとするくすぐったさに、声を上げて喜んだ記憶がある。コオロギの仲間だが水泳もうまい。