萱の木は残った?
 山本周五郎の小説に「樅の木は残った」という小説があり、伊達騒動の新しい視野を描いた。複雑な心情を、文章で表現していないのに、それ以上の迫力で読む者を説得するのだ。
 いわゆる行間を読ませるのである。その後ドラマでも見たが、主人公があまりにもしゃべりすぎて、深みがなく葛藤も描けてなくて、失望した記憶がある。

 いずれにしても世は移り人は変わっても、樅の木が残って、それらの移ろいを寡黙に見つめていることを象徴している。
 畑の萱の木を眺めると、なぜかその言葉を思い出してしまう。左のびわの木を、萱の木が押しのけているように見える。いくら左からびわの枝を押しても、萱の木の下には伸びてゆかずに、枯れてしまうのだ。萱の木は自分の使命を感じて、一人生き残ろうとしているようだ。

 これを観察していると、萱の木は何か阻害物質を出して、下のびわの枝や葉を殺してしまうような気がする。このような現象は、桐の木の下には草が生えないなど、ほかの木にもあるようだ。
 相性の良いコンパニオンプランツがあるように,中の悪い阻害し合う植物もあるのだろう。
 この現象は、どこかの研究発表でも報告されていた。ブナだったと思うのだが、その母樹の下には,種の発芽を抑制する作用があるのだそうだ。種が発芽する最も多い場所は、その樹冠の周辺部らしい。
 これは自分と同じ木の競合を抑え、周辺に拡大してゆくためには必要な方法で、納得できる。また発芽を抑制しているもとの親がが何らかの障害でなくなったときは、速やかにその抑制が解かれて、子孫が芽生えてくるのだろう。
 さて、この萱を切り倒そうと思うのだが、またすでに同じときに植えたものは何本か切り倒したのだが、この一本はなんとなく残している。私が農村活動の中で不当な批判を受けて居るころ、ほとぼりが冷めるまで自分の山荘に居るよう勧めてくれた人があった。
 自分の山で村を抱えているほどの山林があり、そんなところに滞在して風呂も入れてもらいながら、山の話などを聞いて過ごした。このとき5本貰って植えたうちの一本なのだ。もちろんこれで将棋盤を作るとは冗談で言ったものの、生きているうちにそんなに育つとも思えない。
 子供の頃山で採って来たような萱の実もならない。でもなぜか切り倒せない思い出につながって感情が移入している。
 そう思ってほかの木を見ても、すでに亡くなった人を含めて多くの人の面影がしのばれ、ここに植えるに至った経緯や、その後の物語も積み重なってくる。
 子供の頃同じ村で育った仲間とあって話すと、50年近くたった今でも、里山の様子や樹木の記憶が共有できているのだ。どこに結んだ松の苗木があり、霜の頃ケンポナシを拾いに行ったり,神社の境内には砂よりたくさんのどんぐりが落ちていたことなど、まざまざと思い出す。
 ペットの動物が短命なのに対して、樹木は人の何十倍も生き、寡黙に人を見つめているのだ。こう思うと、里山の多くの木に先祖からの想いや語らいが秘められており,また受け継がれてきたし、伝えてゆかねばならないように思う。
 やっぱり萱の木は残るのだろうか。