還ってきた亡母の遺骨と感謝状
 母の遺骨が帰ってきた。もう亡くなってから2年半が過ぎた。母は、三重大医学部に献体をしていたので、お別れ会のときに身体は、式場にはなかった。


 医学部で毎年6月に行われる感謝式には、すでに2回出席してきたが、今回は役目を終え遺骨となって、文部科学大臣の感謝状と共に、戻ってきたわけだ。
 母は自分がこの家で生涯を終わる見通しが立ったころ、早々と献体を申し出た。30年近くが経過し、亡くなる前には何度も私に献体の連絡のことについて確認した。


 すっかり身体が弱り車椅子の生活になってからでも、「献体するには自殺も出来んし」とぼやきながら、その日を待っていた。それ以外のことは何も言い残さず、お別れ会についても何の注文もつけなかった。
 母一人子一人の私たちにとっては、献体しておけば毎年たくさんの方が厳粛に感謝を捧げ、花を手向けてくれる。お墓の土地は亡くなった妻の三千子が市の分譲のときに早々と買っていたが、亡父の隆三のために、墓石は自分が金を出して作った。


 毎年この感謝式に行く日は、一日中無くなった母や三千子と共に生活していた時を思い出す。これは私が生きている限り続くことなのだろう。

 母は貧しい但馬の山奥の家を11歳で出て、働きながら看護婦や助産婦の資格を取った。私を生んでまもなく父が亡くなった後も、私を実家に預けて、病院で働き続けた。その病院も、大阪の貧民救済のためにキリスト教の精神で奉仕的に運営されており、戦中戦後の混乱の中で、過酷な労働の連続であった。


 当時の常として、農地を買う実家のために金を出したり、兄弟やその子供たちの仕事などの面倒を見続けた。夜も昼も関係なく運び込まれる妊婦の出産に立会い、何度も病気になるほど働き続けた。
 一番たくさん子供を取上げたということで、大阪で叙勲を受けてこの家に来た。このときはもう片目は網膜はく離で失明していたし、三重県に住んでいたので、叙勲を特に祝うこともしなかった。


 この家の土地なども、私が渋るのを買ってくれたのだが、今となっては良くやったと思う。そして4歳のときから私と一緒に住まなかったのだが、30年近く老後を共に過ごした。
 この世代の人が持っている倫理観と、さらにクリスチャンとしてのストイックな生き方であった。私たち親子は、甘えられない緊張感のある生涯だったが、良く耐えたものだと思う。そして今となっては、せめて亡くなる前のこの環境が、大きな慰めであったのだろう。
 
 
厳粛に感謝の言葉などが捧げられた後、遺族や今後献体する人はもちろん、医学部関係者などすべての人が献花をする
感謝状と遺骨。後ろの額は勲六等に叙し、宝冠章の授与を示す国璽がおされている
医学部のそばに碑があり、周囲の庭と共にきれいに掃き清められていてこの日は、だれかれとなくお祈りをしてゆく。