44年前の回想・追憶・そして遠望
体験したかったアルペンルート
 かねてから時間ができたら行って見たいと思っていた、「立山黒部アルペンルート」に出かけた。本当は途中に訪ねたいところも多く、気ままに車で行きたいと思った。
 しかし、北アルプスから黒部ダムを経て立山を横断するのだから、駐車しておいた車を取りに帰るのも二度手間になる。またその間回送してもらうのも、当日のうちでは結構高い費用が要る。考えてみると、当然のことだ。
 したがって、とにかくツアーに便乗してのんびりと行きたいと思って探したのだが、あまりこの名張からでは適当なものがない。余分なものがついていたり、集合時間に無理があったりする。
 結局、地元の三重交通の5月13−14日のツアーに参加した。早く出て帰りは遅く、バスは平日にもかかわらず満席で、ちょっと不満はあるものの、まずまずの天気で、行って見たいという目的は果たした。
  仕事で富山市や松本市などにはたびたび行っているし、また観光旅行でも訪れている。出かける前はそんなことが、ちらちら思い出されてルートをたどっていた。
 ところがなぜか、普段は思い出したことのないほど古い追憶に、頭の中がとらわれてしまった。

大きな人生の分岐点
 すっと44年前の自分の姿が浮かんできたのである。当時18歳、明確な目的もないまま山にあこがれて、信州大学の受験に来た。不安な暗い夜行列車で朝早く到着し、霙の降る松本の街を孤独に歩いていた自分が見える。結局は育った但馬と母のいる大阪の間にある、丹波篠山の大学にした。
 交通費などの費用や母の希望もあったのだが、家庭や肉親のない私は、どこに行っても良かったのだ。その後、突き放されてしまうのだが、強烈に恋していたひとつ年上の女性がいたことが、選択の本当の原因だった。
 今にして思えば失恋したときは抜け殻のようになっていたが、その後60年安保の闘争を経て、40年を共にする妻とめぐり合っている。
 ただ、もし松本で大学生活を送ることになっていれば、人生はまったく違ったものになったであろうことは間違いない。歴史に「もしも」や「〜であったら」はないといわれるが、夜中に目覚めて眠られない時を、まったく別な人生のチャンネルで、あらゆる創造を孫悟空が雲を呼び寄せるように組み立てて、楽しんだ。
 確か当時読んだ林芙美子の「放浪記」に書かれていたと思うのだが「青春時代にはいっぱい扉が開かれているが、年をとる毎に一つ一つ閉じられてゆく」という言葉が、私を可能性の追求に駆り立てたのだった。
 18歳のときに可能性を求めるのと、もう62歳になって転換点の別の道を想像でたどるのは、その思いのどこが違っているのだろう。

過去の追憶は老人のしるしなのか
 そして次の追憶は、まず希望して入った山岳部での出来事だ。当時の大学はあまりにも自由だった。漠然とした山への憧れは、1回生の夏に、この信濃大町につながる。北アルプスを白馬から縦走してくる先輩たちの本隊に、大町から針ノ木峠まで食料などの補給物資を運びあげて合流し、さらに槍から穂高まで縦走するサポートの役が割り振られた。
 訓練といっても篠山城の石垣を登ったり、六甲のロックガーデンで一晩キャンプして岩登りをした程度である。母をごまかして当時の日本橋の五階百貨店で登山靴やリュックは手に入れたが、ピッケルは借り物だ。装備も服装や用具も有り合せである。
 おまけに氷壁の訓練などは、この針の木岳で合流したときにやるという。母が遭難したらどうするのか心配する中を、勝手に参加を決めた。
 大阪で夜行列車を待つ長い列に座り込んだ。箱入りの世界文学全集を縦走中に読んでしまうつもりといったら、登山に対する無知を笑われた。この本は箱が擦り切れてシミだらけで今も残っている。当時はいっぱい咲いていたコマクサが挟んである。
 夜行で着いてそのまま霧雨の中の雪渓を登り、テントを張ったものの足元から雨が吹き付けてくる。その疲れた翌日に形だけの訓練とやらをして、その翌日から縦走に出発した。

登山は山村労働のスポーツ化したもの
 登山についてはまったく素人だったが、先輩たちに私も驚くほどほめられ見直された。とにかく重い荷物をしょって平気で(もちろんしんどかったのだが)、付いて行くのだ。
 私にしたら当たり前である。小学校のときから、「草が歩いている」と笑われるくらい、毎日家の但馬牛に食わせたり踏ませる生草を背負って育ったのだ。秋には薪や柴を背負って急な山道を上り下りする。稲束を背負って狭いあぜ道を運ぶ。炭俵を背負って雪道を下る。背中に当たるショックを和らげるため、古い蓑を着て働いた。
 二宮金次郎の銅像のような形だけの背負い方とは根本から違う。何回も行き来するよりも、可能な限り背中に乗せて運ぶ方が、歩く時間が少なくて済む。山田の作業などは、車など入らない。
 農学部とはいえ農家の出身者、まして子供の時から農作業を手伝わされた学生などほとんどいない。途中で倒れこんだ仲間の、軽いリュックをさらに上に載せても何とかついてゆく余力があった。
 そのうち重いものが私に回ってくるようになって、米と石油缶を背負わされていた。滲み出た石油が米に付いて、臭くてたまらない飯を食う羽目になった。当時今のような簡単な食料はなかった。
 槍ヶ岳までは日に何人か出会うくらいだったが、槍から穂高までは切れ目なく人の列が続いていた。そして最後の上高地での夜、ゴミ捨て場をあさってたまねぎとジャガイモを拾って作ったカレーが、すごくおいしかった。生の野菜など食べられなかったからだ。

この快適な体験は何だろう
 今は朝信濃大町を出て、北アルプスを横断し黒部ダムを渡り、立山も縦断して家まで帰ってきてしまえるのである。室堂などはバスがひっきりなしに発着し人があふれている。ちょうど私か始めてきたアルプスを歩いていたころ、黒部ダムの工事が終わりかけていた。
 まさに高度成長が始まる前、列島改造や環境破壊が始まる前、そして土木建築の技術も手探りの時代だった。今までどれだけ自然を改造してきたことだろう。当時の土木作業は、つるはしやスコップが必要だった。それが扱えるのは農民や炭鉱労働者だった。
 その二つの産業から労働力をかき集め、それらをつぶして高速道路や鉄道や巨大構築物を建設してきた。その結果の社会の繁栄と効率化と快適さを、ひたすら日本は歩んできた。
 私たちの世代は、その過程を時には誇らしく、時にはためらい、今日まで進めてきたのだ。今その転換が求められているのだが、経済も産業も生活も、そんなに簡単に元に戻ることはできない。
 いやとても今では、戻る道は無くなってしまって、もう進むしかないところに来ている。かつて縦走した北アルプスの尾根筋を眺めながら、もう戻ることのない年月を思った。土建会社の衰退は当然だ。
 私たちの世代の環境などを考える人は、将来は大変暗く希望を失っているが、もう自分たちの将来もそう永くないから良いんだというような本音が漏れてくる。だが青春の日、やはり私たちは幸せな未来を求めて努力をした。
 今の青年たちはどうなのだろう。
大観峰から、黒部ダム越しに北アルプスを望む。あの稜線を縦走した
黒部ダムはたくさんの流木に覆われていた。土砂の堆積も想像できる
初夏の陽気の後、雪渓に何の苦労もなく立つことができる驚きがある
室道は人と車で賑わい、冬の旭川の町より快適だ。
弥陀ヶ原の雪原
立山信仰の影もなかった
 かつて立山のふもとの神社で、立山信仰について説明を受けたことがある。立山は霊山として、各地から身を清めて登山する人が訪れた。
 立山の信仰を描いた曼荼羅の図があり、それをかけて縁起物語をして参詣を勧めた。その役割を、各地を旅して回る薬売りの人たちが果たしていた。
 弥陀ヶ原や室堂などの名前も、立山信仰の中から生まれたものだろう。各地にある山岳信仰と同じような教えだ。
 しかし今回の行程では、まったくこの山が聖なる山としてあがめられたような話はなかった。そして如何に工事技術が優れ、ダムがどんなに貢献しているかなどの紹介が多かった。
 追憶の過去に対して、今の生活を築いてきたことが、われわれの世代でもあった。自然を畏れ敬うことから、征服し利用してきたのが、今の環境などの破壊をもたらしているのだ。
 また信濃大町から名張に家族全員で引っ越してきた配管工事業者を思い出す。この地は半年仕事ができないが、名張の気候と発展を見て決断したそうだ。
 かつて各地を旅しているときは、その土地の生活から慣習や産業に触れた。それが旅だった。今はツアーというベルトコンベアーに乗って、通り過ぎてゆくだけだ。
美女平から富山方面を望む