創業期から3代目伊賀鉄道まで興味ある事柄を紹介(第1編)

伊賀軌道時代 大正2(1913)10月年〜同6(1917)年12月

1.鉄道院関西線上野停車場から鍵屋の辻停車場間は初代伊賀鉄道路線跡を流用している。

その1,初めは一部区間を利用した
資金を極力抑えたい伊賀軌道としては、関西線上野停車場と上野町停車場間はほぼ直線で結ぶ予定であった。玄蕃町裏の堀跡を抜けて丸の内菅原神社の北側付近を始点に考えていた。当時の建設資金は総額150、000円で内訳の用地買収費は5、000円土工費30、000円橋梁関係24、500円停車場費8、000円鉄道院上野駅模様換費1、000円車両費客車(内燃動車)2両24、000円貨車5両5、000円転写台費2、000円他50、500円合計150、000円を計上する。
組織が出来本格的に実地測量を始めていた頃に、旧伊賀鉄道の土地を所有している富増栄吉、玉井貞次郎両氏が田中善助宅を訪ねてきた。彼らの所有している路線跡全区間を35、000円で売りたいと持ちかけた。しかし用地費は5、000円でとても無理である。買収交渉の結果第一段階は、関西線上野駅付近から鍵屋の辻までとしそれ以外は第二段階として、名張方面への路線延長計画用として腹案されていた。現在の路線の線形は鍵屋の辻停車場(この駅は現在は存在せず)から東方向に曲線して上野市街に線形が変わる。つまり設立当初の路線線形は、以上の理由により幻となる。この変更の結果、動力としての蒸気動車案は消滅している。
この辺の状況は図面化しましたから次の「伊賀軌道史料その1」でイメージしてもらいたい。

2.伊賀軌道設立時計画の車両については謎が多い。

その1,初めは蒸気動車を企画した
伊賀軌道設立に当たり技術者を採用しているが顧問に渡辺恒太郎、技術主任に山崎嘉重郎の名前がある。前者は京都鉄道建築課長兼汽車課長を歴任していた。後者の実績は不明で当時の鉄道界の人名簿にも見られない。しかし設立当初の車両計画書の車両費24、000円(2両分)を計上する。内容は工藤式蒸気動車採用を考えているが誰が発案し目をつけたか?
当時(1914年)に近場で稼働していた同種を管見する。古くは関西鉄道時代からあったが鉄道院西部鉄道管理局では関西線湊町・柏原間にジハ6005形や初瀬軌道キ1〜4、河南鉄道乙、丙、丁形5両及び近江鉄道ぬ壱・弐号、湖南鉄道キロハ1・2が営業していた。この当時の車両価格を管見すると、1両当たり鉄道院(12,500円)初瀬軌道キ1(14,000円)河南鉄道(17,000円)・近江鉄道(18,500円)程度の時代でしたから伊賀軌道の車両費1両14、000円は妥当である。
予定車両の仕様を見ると、定員36(座席)自重22。7頓最大車長(長さ×幅×高さ)13.563×2.642×4.127 ※フィート・インチを換算 工藤式つまり汽車会社製をターゲットとしている。同規模に一番近い形式を探ると初瀬軌道キ1〜4が該当する。車体寸法や定員・自重等が一致しているので同一対象と見てよい。関係者で実見しこれが理想的と決めたようだ。しかし工事が進むにつれ問題点が出てきた。鍵屋の辻〜西大手間急勾配区間に対し鉄道院貨車での貨物流通を考慮すると牽引力不足が絶対的に問題であり動力を蒸気機関車へ変更で幻となる。

その2,はたして開業時に貨車群は存在したのか?
伊賀軌道開設準備に前述の蒸気動車導入を考えていて、同時に有蓋貨車5両として5、000円を計上している。汽車製造会社製を予定していた。しかし製造された形跡が無く、工藤式蒸気動車同様実現せず?。次に公式資料の大正5年度統計には、有蓋貨車1両(7頓)と無蓋貨車1両(6頓)と記録されているが、翌6年度では有蓋貨車2両(13頓)と自重合計が合致しているように見える。しかし詳細は謎である。大正8年度まで変化が無く継続し、翌年有蓋貨車5両(29頓)新規に無蓋貨車3両(27頓)が加わる。問題は大正5(1916)年度の貨車で一説に客車ハ1形と同じ名古屋電車製造所製らしいと言われているが確証がない。記録に同年鉄道院所有貨車使用伺いがあるが自社所有は不明である。又翌6年度に有蓋貨車2両が数値上現れる。形式称号・記号番号も不詳であり今後の課題にしたい。あえて言えば旧鉄道院から2両払い下げを受けたワ101形101・102が該当する。101号の前身は鉄道作業局明治4年11月英国バーミンガム製という代物である。参考までに貨車走行哩数は、大正5年度7、637哩同6年度18、477哩と数値がある。

その3,大正6年度の公式書類に客車1両増備の謎?
伊賀軌道は開業に客車ハ1形1〜2を名古屋電車製作所にて製造されたことは確実だ。定員40人×2=80人が翌6年3両となり定員計120人と記録され7年度では104人に減で計上された。定員が40人→24人と変更したのは数量間違いなのかわからない。それではこの1両を探索したい。
第一に指摘できるのは、3等合造手荷物緩急車ハフ1形が該当する。大正7年9月改造設計し同年10月完成した旧鉄道院手荷物緩急車ニ4389形4389号が前身です。ここでその前を辿ると買収した山陽鉄道2327号で、これは買収した讃岐鉄道(記号番号は不明)が原点です。明治23(1890)年バンデルツアイペンウンドチリャー工場製で26年落ちの中古車である。購入前は、表記の種類の通り客室の設備はない。そこで鷹取工場で一部3等客室に改造し定員が24人か?
残念ながら図面や仕様が見つからず確認できず。

伊賀鉄道時代 大正6(1917)年12月〜同15(1925)年11月

1.伊賀鉄道(2代目)は、既に伊賀軌道建設中に並行して設立されていた。

その1,初代伊賀鉄道路線跡流用が発端
伊賀軌道は軌道条例で、2年余を掛けて大正5年8月8日上野町・上野連絡所間2哩3鎖を開業してる。初代伊賀鉄道路線跡を利用しているが残区間鍵屋の辻分岐(阿山郡小田村大字小田字東出1071番地)花之木村間も利用し更に延長名張町字広垣内470番地まで計画していた。大正3年12月に軽便鉄道条例で、「伊賀鉄道敷設の件御許可願」を提出したのに始まる。しかし初代の解散が当局に不信感を抱かせ認可が下りたのが3年経過後の大正6年1月であった。
この年12月伊賀軌道が社名変更し伊賀鉄道となるが敷設権利を条件付きながら無償で譲渡した。つまり別会社として出発したことになる。

2.伊賀鉄道上野町・名張間の路線線形決定には当初は振り回される。

その1,上野町停車場より延長に変更し阿保回り美旗?
上記その1に触れたように旧伊賀鉄道廃線跡を流用する計画を伊賀軌道始点上野町停車場接続延長に変更した。終点名張は後の駅ではなく八丁付近である。途中駅は8カ所の予定であった。上野町停車場から市街地を抜け城南村・猪田村・依那古村・神戸村では長田川西側を敷設し美濃波田村新田経由して蔵持村・名張町市街付近の路線計画である。しかし阿保村から比土から阿保市内を経て欲しいと要望が出る。しかし美濃波田村までの地形は険しく蒸気機関車の能力では困難と説明し比土付近に阿保停車場を設けることで解決した。
結果としてここから西に方向を変えて長田川を渡り神戸村庄田渓谷の勾配をとり新田に隧道を掘り西原に至り名張街道に沿って走ることにした。初代伊賀鉄道跡の路線は、現在の国道旧368号に近く比較的勾配が緩やかであった。しかし地元の意見を採り入れてこのように変わる。

2.伊賀鉄道の客車・貨車群全て中古品であった。

伊賀軌道は軌道条例から地方鉄道法に変更し当伊賀鉄道も軽便鉄道法で認可を得て、同鉄道では蒸気機関車を除き全数譲り受け車であった。
   客車の部 
 1、第一段として鉄道院から大正7年9月手荷物緩急合造車ニ4389形1両を希望し鷹取工場にて一部3等客室に改造してハフ1形1号が完成した。出自を見ると明治23(1890)年バンデルチィペン製の23年経過の代物で、讃岐鉄道が発注し同社が山陽鉄道に買収され2327号となり国有化されても配属はほとんど変わらず。
 2、大正年9年6月に5両の増備を計る。鉄道院から純粋の木造3等客車ハ2336〜2338の3両である。鷹取工場にて整備の上ハ10形10〜12と改番した。出自を見ると明治27年(1894)年山陽鉄道兵庫工場製で、奈良鉄道の開業に合わせた18両の内、関西鉄道に買収され470〜472号となる。
 3,大正11年更に増備した。鉄道院から木造郵便手荷物合造車ユニ3905形の5両である。鷹取工場にて改造整備の上ハ21形21〜25と改番した。出自を見ると21〜24明治29年(1896)年福岡工場製と25号の明治22年(1889)年バンデルチィペン製で、讃岐鉄道が発注し同社が山陽鉄道に買収され2320〜2324となり国有化されても配属はほとんど変わらず。
 4,大正11年7月に増備している。先の車両と同一で木造郵便手荷物合造車ユニ3905形で鷹取工場にて撤去改造し3等手荷物緩急車ハブ2形2〜3と改番した。出自を見ると2〜3号の明治22年(1889)年バンデルチィペン製で、讃岐鉄道が発注し同社が山陽鉄道に買収され更に国有化された。ハブ3として加悦鉄道で昭和44年7月まで現役で活躍しその後も保存展示されている。 5,大正11年7月に同じく増備している。讃岐鉄道が発注し同社が山陽鉄道に買収され更に国有化された特別客車トク31形1両です。出自を見ると31明治30年(1897)年福岡工場製で、讃岐鉄道が発注し同社が山陽鉄道に買収され2336となり国有化されてトク20となり特別扱いされていた。ほとんど原型のまま譲り受けて使用した。
 6,大正11年7月に同じく増備している。元山陽鉄道2330で国有化されてニ4392形1両です。出自を見ると明治29年(1896)年大阪福岡工場製で、出自は譲渡後ニ6形6号に改番したが原型のままである。

   貨車の部
 1、第一段として鉄道院から大正8年10月木造有蓋貨車2両を増備する。鉄道院の譲受け車でワ101形とした。出自を見ると元甲武鉄道ほ19号で新橋工場明治27年4月製で国有化後ワ6415形となり整備の上ワ101形101と改番した。102号の出自を見ると明治4年11月(1872)年英国工場製ワ4号と我が国初期の製品である。原型のままである。
 2、大正年9年6月に木造有蓋貨車3両の増備を計る。鉄道院の譲受け車でワ101形103〜105とした。出自を見ると全て元関西鉄道38・86・91号で同社四日市工場明治20年代製で国有化後ワ6436形となり整備のワ101形の引き続きとした。
 3、大正年9年6月に木造無蓋貨車3両の増備を計る。鉄道院から譲受け車でト201形201〜203と呼称した。出自を見ると全て元日本鉄道巳形で東京天野工場明治33年4月製でした。国有化後ト9283形と改番つれていた。ほぼ原型のままト201形201〜203変更したが後ト51形に形式変更された。(伊賀鉄道時代に在籍した唯一の無蓋貨車)
 4,大正10年9月土運車借用願提出しているが詳細は不詳しかし推定だが近江鉄道から借用した無蓋貨車であろう
 5,大正12年1月に近江鉄道より土運車借用願を提出し3両ト18〜20ですが詳細は不詳
3.伊賀鉄道時代上野町停車場と近鉄時代での駅舎風景参考比較。

写真 伊賀鉄道上野町停車場と駅舎
写真説明  左に見える建物は新築早々の駅舎右にあるのは給水塔か
写真 近鉄伊賀線上野市駅と駅舎
写真説明  近鉄時代の上野市駅駅舎ですがほとんど昔のままと変わらず
番外編 播州から来た蒸気機関車は強い見方

3.伊賀鉄道の蒸気機関車4号機を徹底的に紹介。

伊賀軌道時代は、蒸気機関車1・2号、客車、貨車は新造車で占めていた。伊賀鉄道に変わって蒸気機関車も延べ4両が増備された。列記すると、1形1・2号は大日本軌道鐵工部大正4(1915)年製、3形3・4号はBaldwin製で大正10(1921)年9月及び同8年(1919)年11月製造である。5形5号機はO&K同11年(1922)年9月製造、6形6号機もO&K同12(1923)年11月製造が全てである。このうち4号機だけが該当する。それではどのような経緯で、どのような性能でどのような外観で等を探りたい。
先ず経歴からアプローチとして、播州鉄道を簡単に紹介する。明治44年5月18日設立し兵庫県の高砂・西脇間40qを建設する。大正6年1月支線も含めて予定区間が開業し次いで鉄道省福知山線谷川駅に接続を同5年10月免許を取得した延長計画も諸事情で頓挫した。それが開通したのは大正13年12月会社を引き継いだ播丹鉄道により実現した。他に現在の廃止区間でうる鍛冶屋線・高砂線や第3セクターの三木鉄道・北条鉄道も開業させた鉄道である。これらは昭和18年6月1日国有化されている。
播丹鉄道の蒸気機関車は1号機から20号機(予定)まで在籍していた。特にBaldwin製だけで7両を持ち他にKrauss、Dubs、Pitsburgh製等バラエティに飛んでいた。しかし多くの車輌を処分している。うち同社7号機が一時休車の後、推定だが大正10年10月と同11年5月の間に伊賀鉄道へ譲り渡したようだ。ちなみに3号機は大正10年10月26日付機関車設計認可申請し同年12月16日竣功届後に購入した。しかし約1年後の製造ですが遅番である。


(3代目)伊賀鉄道蒸気機関車4号機形式図
図面説明
同社が新造した3号機は、Baldwinの1921年9月製造で製造番号55033です。4号機もBaldwinの1919年11月製造での製造番号52718です。Baldwin会社の記録では何故か伊賀鉄道No1としている。
このBaldwin会社製の2両は比較的調子が良く機関士には人気があったようだ。



次は、伊賀電気鉄道・参宮急行電鉄伊賀線編