かなり養護学校のあり方を問う意見を出させていただきましたが、これについての議論はあまり無かったのでしょうか。国の制度は制度としても、幼い頃から障害のある子どもと共に育つことの大切さは声を大にして申し上げたいと思います。現在ある様々な縦割りの弊害も根元はここにあるように感じています。共に障害を個性として受容し、生活上の課題についての解決策となる智恵を体験をとおして開発していくことが、今後の地域社会にとって、また、柔軟な発想を生み出す原動力として大切であるとお思いになりませんか。 近江学園の創設者糸賀一雄(1914〜1968)は「この子らを世の光に」と、障害のある子どもを世の中の中心に据える考え方を提唱しました。この概念は今も通用すると思うのですがいかがでしょうか。
とかく、本人が悪いと思われてきたホームレスの人たちも実は、現代社会が生み出した矛盾の中でドロップアウトせざるを得なかった、極めてナイーブな人と理解できます。
社会福祉の発達の歴史の中で、イギリス産業革命期に強制収容所で強制労働させられた人たちはチャールズブースのロンドン調査、ウエッブ夫妻の報告、そしてベヴァリッジに引き継がれ、「欠乏」「疾病」「無知」「不潔」「無為」の5巨人悪すなわち、社会保障、医療、教育、住居と環境、雇用、の諸問題の解決は個人の力だけではいかんともしがたく、国がそれを保障すべきであるとして「ゆりかごから墓場まで」の社会福祉発達の基礎が作られたことはあまりにも有名です。
アメリカのケースワークの母メアリー・リッチモンド(1861-1928)は障害の背景は「人とその環境の接合面に問題がある」としました。
いずれの思想も問題を個人と捉えるのではなく、社会的な問題と理解したことにあります。こうした思想を深めるためには、何らかの福祉的な課題を持つ人が地域社会で暮らしていることが自然であり、こうした課題を持つ人があたりまえに暮らせる地域社会こそが私たちがめざすべき方向性だと考えます。従来ハンディキャップドと呼ばれてきた障害のある人も最近ではチャレンジド(神から挑戦することを許された人)と呼び、障害をよりポジティブに捉える動きが活発です。
人類は幾多の苦難を英知によって乗り越えてきました。暮らしの中で起こる様々な福祉課題を住民が相互に協力しあいながら解決できる社会をめざしたいものです。
だからこそ、複雑な福祉課題を持つ人があたりまえに暮らせる社会であれば、誰もがあたりまえに暮らせる社会と言えます。